無名稿 機械【無名劇団】160610
2016年06月10日 シアトリカル應典院 (100分)
今年の2月に予告編らしき、30分の短縮版を拝見。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/160207-458c.html)
<↑リンク先にあらすじを書いているのでネタバレしますので、ご注意願います>
原作の横光利一の機械も読んで伺いました。
ネットで公開されていて、文体が独特で、正直、すごく読みにくいですが、まあ20ページぐらいの短編です。
読んでおけば、本筋の登場人物の関係性はすんなりと頭に入ってくるはずです。
あと、この本筋の登場人物の心情をより明確にするエピソードを絡めているような構成だと思います。
人間が人間でなくなって、機械のようになってしまう。そんな人間の脆さと同時に、その脆さを巧みに利用して創り上げられる無機質な社会への警鐘が感じられるような話でしょうか。
登場人物が女性が多いということもあり、偏見でしょうが、けっこうえげつない妬みや恨みがいやらしく、さらに暴力的に描かれています。
心が無く保身的な飄々とした姿、ねちっこくいやらしい笑み、感情を失った冷たい表情、常に攻撃的で荒々しい獣のような眼差し。そんな嫌な人間の姿が、心を失ってしまった、機械の部品のような存在であると言ってるが、同時にそれが人間の本性でもあるようなことが言及されており、自分が自分らしく、人として豊かに生きることってどういうことなのかに頭を巡らされる作品だったように思います。
あらすじは、上記リンク先を参照。
靴工房の社長がカラスバ、彼と結婚した女性がスミレ、スミレと出会い靴工房にやって来る女がアカネ、女職人がアサギ、スーツ姿の女性がクチナシです。
と言っても、その時拝見したのは30分の短縮版。
100分に拡大されたところは、最後の方に記した靴磨き屋の下にやって来る二人の女性にも焦点を当てて、本筋と絡ませているみたいです。
そこでは、いじめる、いじめられるは順番に廻ってくるといった、人が人を傷つけたくなってしまういじめの原理のようなことや、その傷つけは結局、嫌な思いをしてでも誰かと繋がっていたいからだという人間の本能を描いているみたいに感じました。
これは、前回、拝見した30分版でも、分かるように描かれていましたが、こちらでは、よりシーンを重ねて、その人の心情を積み上げていっているような感じでしょうか。
今回は、この作品を観る前に、モチーフにしている横光利一の機械を読みました。ネットで公開されていて、20ページぐらいですかね。まあ読みにくい文体ですが、言わんとしていることは何となく漠然と伝わってくるような話です。
と言っても、上手くは書けませんが、人間が歯車のような部品となって、機械のような無機質な社会を生み出してしまう漠然とした不安かな。
観劇の感想に私はよく想いという言葉をすぐに使ってしまいますが、どんな作品でもその想いを大切に描かれることは確かに多いように思います。
この作品でも、想いはたくさん出てきます。妻であるスミレ、下で働くアサギやアカネは、カラスバに対して、明確な想いを持っています。想いなんて、人が機械で無いことを説明するのに最も適していそうですが、この作品では、アサギもアカネも、歯車のような存在に徐々になっていってしまっているように思います。想いを手段にして、自分の存在を確認、肯定しているように見えます。
こうなった時、そこに想いはあったにしても、それは人を繋げ合うものではなく、歯車が噛み合うだけのような関係になってしまうのでしょうか。そして、その歯車はちょっとしたズレですぐに潤滑に回らなくなってしまう。そのズレを引き起こすのは容易で、妬みや嫉妬、恨みといった人の負の感情が生まれたら、それで十分となる。
どうも、不安定な社会の中で、自分を見失って崩壊してしまわないように、自分を肯定化できるように、人を想うみたいな、心の存在無しの機械のような想い合いが蔓延ってしまっているようなことを感じさせられます。これが人は繋がりたがっている、たとえ誰かをいじめの対象にして犠牲にしてでもといったことに繋がっているように思います。
ラストにアサギとアカネが声にする、私が何をしたかを私に聞かれても私が知っているはずが無いといった言葉も、そんな心を失って、ただ、自分を守ることを維持するために生きる時間を費やしている人間の姿が浮き上がります。それは、きっと生きる時間ではなく、機械のような動いているだけの時間なのでしょう。
原作の機械は、靴工房では無く、プレート工場です。
なぜに変えたのかは私には知りかねますが、思うことが二つあります。
一つは、靴は、その時の自分が自分で選んだり、その自分にピタリとはまる靴をオーダーメイドしたり、その人自身のような描き方をしているようです。
靴磨き屋は、靴を見て、今のその人がどういう状況なのかを読み取ります。そして、その汚れを取る。心のサビをとってあげているみたいな感じかな。
履いている靴は大事にすればいいし、今の自分と合わないなら脱ぎ捨てて、新しい靴を履いて歩きだせばいい。汚れても綺麗にすれば、また気持ちよく、その靴で歩み出せるかもしれない。
そんなことを言って、汚れをとってくれる靴磨き屋は最後、抹殺されます。
あらゆる条例で大衆を縛り付け、窮屈な想いをしているのに、おもてなしが素晴らしいなんてよそからは言われる社会。想いがあるけど、そこに本当の心は無い。機械の部品として扱われる大衆たち。そんな社会に磨き屋は不要、それどころか、邪魔になるから消してしまったようです。それも民意に従ってという大義の下に。
既にそんな社会になってしまっている。私たちはいつの間にか、人として生きるのではなく、機械の一部品として存在し、動くことを強いられているみたいです。それも、ただ動くといった奴隷のような存在では無く、偽りの想いを抱かせて、自分は決して機械では無いんだと思わせるように仕向けて。
そんな不安感を煽られる今の社会への警鐘が込められているように感じます。
二つ目は、靴もプレートも染料といったものが出てきます。
自分の色を染めるみたいなことも感じられますが、劇中に出てくる化学式を伴う物質の数々。二重結合が開いて、他の物質と手を結んで色を発する新たな物質が出来るみたいなことも言及されます。
歯車は手を結んでも、ガタガタ動いて、物を動かすことが出来るだけ。でも、そんな化学の反応は、一人一人が手を結び合えば、新しいものを生み出すことが出来るようなことを感じさせます。人は歯車では無く、もっと可能性を秘めた化学物質のような存在であるはず。でも、それを良しとせず、何だったら、反応を起こさないように、起こさないようにと慎重になり過ぎて、物質がぶつかり合うチャンスも失ってしまうような社会構造が浮き上がるようです。
そして、ちょっとうろ覚えですが、カサラギはその染料の原材料は海辺の工場からの汚水だと言っていたような。海辺の工場は、もしかしたら、アカネの父を職人でいさせなくなった船の工場では無いでしょうか。機械化する工場の形態に負けてしまったアカネの父親。でも、その工場の汚水は、より良きものを生み出したいという自由な生き方をするカサラギによって、新たな染料となり、本当の人への想いのこもった靴へとなる。
近代化による、機械化は避けられないにしても、そこから人は、また人が人であるような社会を生み出す能力があることを示唆しているように感じます。
見ていると登場人物には、何か見失ってしまっているようなことが感じられます。
上記したようにカサラギへの想いは、アカネもアサギもスミレも確かに感じ取れます。
でも、スミレは善良な人ではあるが、経営者としてもっとしっかりしないといけないカサラギにするべきことはしていないように思います。それは妻だからこそ投げかけられる厳しい言葉も含めて。優しいカサラギの想いを甘んじて受け止め、それに満足してしまったかのような。彼の妻でいることへの守りでしょうか。
アサギは、過去の生い立ちのこともあり、家族というものを維持することがどれほど大変なことかをトラウマのような形でよく知っているみたいです。彼女に依存していた母親。それだけで想い合える家族は出来ない。そして、あの時のソーシャルワーカーのように誰かが助けてくれるわけでは決してないことが、彼女をあそこまで強い人とさせたのでしょう。でも、その強さとは裏腹に、カサラギのこの靴工房で家族の一員のように働く今の自分を守ろうと必死なこともうかがえます。それこそ、それを脅かすものならば、全力で攻撃するような。これも、今の自分を守ることへの執着のように感じます。
アカネは、過去にいじめられ、いじめるという立場も経験しているみたい。だから、人なんていつどうなるかは分からないといったことを、いい意味でも悪い意味でもよく理解しているように見えます。だから、アサギからいじめのような仕打ちを受けても、比較的冷静で、立場を守りつつ、いつでも反逆に立てるような体勢を常に維持しているようです。そして、アカネもまたアサギと同じように誰も助けてくれないことを知っています。先生は自分がいじめている時も、逆転して友達がいじめられるようになっても気付いてはくれません。そんな振りかもしれませんが。そして、その振りをする先生をいじめていた時は、上手く誘導してしまうことも出来てしまうくらいに、人は自分のことしか考えていないことを知ります。でも、そんなアカネはカサラギから大きな信用を得ます。信用されたら負けなんて言葉が原作に書かれていますが、その頃から、冷静な目で人を見れていないような感じです。カサラギの期待に応える。このことが、そのために自分の役割をしっかりと果たすということに執着し過ぎてしまったかのような感じです。
結局、アサギもアカネも、最終的に、カサラギのためと言いながら、自分を守る、今を維持することに執着し過ぎて、それを脅かす外部因子を極度に恐れるような感じです。
その外部因子がクチナシでしょう。
何も無いところで育った彼女の環境か、何かを生み出すためには、まずそれを生み出すための材料をそこに持ってこないといけないような感覚が強くあるようです。何も無いんだから、盗まなければ仕方ないといった究極の理論でしょう。アサギは今までずっと偽りの家族と靴工房の中の狭い世界で生きていたからか、完全な拒絶を示します。でも、アカネは、少なくともアサギよりかは少し広い世界を知るからか、その考えに心を開きます。もしかしたら、通じ合えたのかもしれません。でも、それよりもやっぱり今の自分の維持が勝ったみたいで、でも、クチナシのような生き方にも憧れを抱いたりと。その複雑な心情が絡んで、ラストのような結果に至ったのでしょうが。
今の自分自身を大切にする。それに固執する。履いている靴を絶対に脱がない。これが自分にぴったりの靴なのだと思い込む。
こんな保身的な考えが、招いた悲劇でしょうか。
自由に飛びたい、人から想われたい、想いたいと人間らしく願っても、いつの間にか機械の部品のようになってしまっている。
自分が人と手を結び合えば、心を通じ合わせれば、驚くような新しいものを生み出す可能性があるのに、それに目を背けてしまう。
そんな生き方への警鐘。同時に、それを上手く利用して、たくさんの人々を歯車にしてしまうような社会への警鐘が浮き上がります。
変わりゆく現実を受け止めて、生きていくしかない。それはいじめ一つのように、いつどうなるか分からない人間の性。
そうならば、傷つけ合っても繋がりたいという人間の醜さ、弱さを、尊きものなのだと受け止めて、その中で自分が自分らしくあることを肯定しながら、人と触れ合って歩くしかないのではないのかと感じるような話でした。
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