LEFT~榛名ベース到れる~【遊劇舞台二月病】160520
2016年05月20日 シアトリカル應典院 (95分)
連合赤軍の総括によるリンチ殺人事件を、報道的な事実描写ではなく、演劇らしく、そこにあった者たちの生き方をたどりながら、その想いを見詰めようとしている作品。
犯罪事件を扱った作品は、私の中では大竹野作品で幾つか拝見しているが、それと似たような感覚だろうか。
犯罪性や悲劇への問題視はもちろんあるが、それよりも、世を変えたいという純粋な想いがあの時代に確かにあって、それを実現するべく起こした行動が悲劇を生み出してしまう人の弱さを知ることで、今、現在においても学ぶべき多くの考えが導き出されるような話として創り上げられているようであった。
<以下、あらすじっぽいことを書いていますが、当日チラシで渡される年表の歴史的な事実を超えるものではないと判断して白字にはしていません。ネタバレに一応ご注意願います。公演は日曜日まで>
当日チラシで連合赤軍の年表が配布されるのだが、だいたい1969年頃ぐらいからが描かれているみたい。
下記は、その年表と、この作品を拝見して、だいたい私が理解した内容を記している。知識不足からの誤解部分も多々あると思うが、この作品の本質はその歴史的な事実はもちろん重要だが、そこにあった心の動きを感じ取ることにあると思うので、ご容赦いただきたい。
1969年、共産主義者による日本赤軍派が結成。
同時期に日本共産党による革命左派が活動を開始する。
1970年に赤軍派のよど号ハイジャック事件が起こる。1971年には国際的な革命と同調するような巨大組織として、資金確保のためにM作戦という金融機関強盗を開始する。
赤軍派は国家に危険視され、相次いで指導者が逮捕される。そのため、幾らかの重大事件において敵前逃亡を繰り返し、決して評判の良くはなかった森恒夫がリーダーとなる。
一方、革命左派は指導者の川島が逮捕され、奪還のための拳銃強奪事件を開始。リーダーは永田洋子。
こんな赤軍派と革命左派が共闘することになり、統一赤軍を経て、連合赤軍が組織される。
連合赤軍という名前ぐらいはもちろん知っていたが、そもそも連合という言葉に対して何にも考えていなかった。
連合だから、何かと何かの共同戦線な訳だ。それが赤軍派と革命左派。
これはこの作品を観ただけでは分からないことも多いが、ちょっとネットを調べただけでも、どうして組めたのかがけっこう不思議。
今のおかしな道を進み始めようとしている社会を変えなくてはいけない、それは皆が幸せになれる社会だという大儀は、おおまかに言えば共通しているが、場合によっては、相反する思想を持っているようなところもあり、既に歪みを感じてしまう。
金と地位があった赤軍派と、武器を豊富に持つ革命左派が、互いの弱いところを補い合えるみたいな感じだろうか。
決して分かち合っている感じではなく、同士という言葉に違和感を覚える。
今で言えば、これはうまくいくはずないよな、これまでの培ってきた考えややり方が違うんだから、それを統合出来るだけの力ある社長じゃないし、みたいな違和感のある会社合併みたいなイメージかな。
連合赤軍が結成されてすぐに、革命左派メンバーが脱走。情報漏洩からか、ベースを警察に踏み込まれ、加藤能敬が逮捕されてしまう。
赤軍派の森は、革命左派の永田に、脱走メンバーの処刑を命令。
その言動に、赤軍派メンバーの進藤隆三郎は反発。山崎順は賛意を示す。
永田が睡眠薬を入手して、革命左派メンバーの小嶋和子、大槻節子、金子みちよにより、脱走メンバーを処刑。小嶋は加藤と恋人関係にある。金子は妊婦である。
同じ革命左派メンバーの尾崎充男は、その行動を批判する。
印旛沼事件というらしい。これも恥ずかしながら知らなかった。
ある意味で、これから起こる悲劇の発端に当たる事件だろう。これにより、人を殺す、仲間を殺すということの一線を越えてしまっている。
周囲に決して認められていない森の強いリーダー像を誇示するため、赤軍派に弱みを見せたくない革命左派の永田みたいな構図だろうか。
プライドもあったことだろう。
何でかよく分からないが、どうも今の社会や会社組織においても、殺人までは起こらないものの、似た構図が感じられてしまい、そんな目で観てしまったところがある。
会社合併後の新社長が自らの経営力を素早く見せるために、大掛かりなリストラをして、株主にアピールとか、合併は決して50VS50ではないので、弱い方が、少々無理なことでも、今後のために無茶をするみたいな感じにも見える。
1971年12月に新倉ベースにて軍事訓練。
進藤は森の変わっていく態度に露骨な反発を見せる。
進藤は持原好子という芸者と同棲していた。
彼女の稼ぐお金は、進藤との生活だけでなく、仲間である森や山崎、連合後は尾崎の活動や生活費にも費やされていた。
人の出入りも激しく、時には激論を交わしてうるさく騒ぎ、二人っきりの生活が出来ない状況に、持原は苛立ちを覚え、警察に駆け込むなどと過激な言動をしたこともあったようだが、いつも進藤をはじめ、皆の活動のための礎だったようだ。
持原は妊娠。赤軍派脱退を促される進藤だったが、それを拒絶して、山岳ベースに向かった。その時に、森から危険なので持原を処刑するようにほのめかされている。
森への反発心を膨らますのは進藤だけではなく、尾崎もそうなっていった。
銃の訓練。軍事訓練といっても、所詮は素人。なかなか、その技術は向上しない。
それを非難する森に対して、尾崎は反論する。しかし、それを責任逃れだと厳しく、逆に尾崎を批判して、目の敵にするように。
仲介役を努めようとする進藤だったが、永田から苦労して手に入れた銃を有効利用されていない現状に対して強い不満を露にされ、覚悟が足りないことを非難される。
そんな状況に、大槻や金子も森や永田の考えが分からないと戸惑うように。
そして、小嶋はいつか私も印旛沼の時のように殺されると不安になり、加藤に救いを求めるようになる。
このあたりから、自己批判、総括というよく聞く言葉が出てくる。
森と永田の焦りもはっきりと姿を現す。
これより前に、様々なメンバーが、各々の活動への意志を語っている。
おなかいっぱい食べられない世の中はおかしい、戦争が怖いからその道を進もうとしている世の中を別の道に進ませたかった、皆が楽しく幸せな社会を目指す一つの手段だと考えた、労働は金を稼ぐためという単純な構図に疑問を抱いた、生まれてくる子供のために今を変えなくてはいけないと思った・・・
子供が出てきて、この描かれている世界にも未来があることも見えてくる。
その考えが正しい、間違いとかは置いておいて、皆、今を見詰め、私が、そして皆が生きるための未来に視線を向けているように感じる。
しかしながら、ここでは、もうその強い意志は陰りを見せている。これまでずっと一緒だった仲間だから、今さら自分だけが逃げるわけにはいかないといったような、今のおかしさを見詰めながら、視線は全て過去の活気溢れていた時へと向かってしまっているようだ。
大義だけが形として残って、もはやどうしようもなくなってしまったかのような、彷徨った状態。進むためには、今、そしてすぐ先をどうするかしか考えられない。木を見て森を見ずみたいな感じだろうか。
自分で考えろ、何でも押し付けるな。余裕が無くなり、焦りがある、道が見えなくなってしまったリーダーがよく使ってしまう言葉ですね。私も、昔はそういうことを言うリーダーを強く批判していました。自分の感じだと尾崎みたいな感じかな。この男が一番最初に死にますので、何とも辛いところはありますが。その時の会社に今はいないということを考えると、まあ、ある意味では死んでしまったのかもしれません。しばらくはそんな態度を改めることもしなかったのですが、それを受け入れてくれるような人たちと出会えたことが幸せだったようにも思います。
で、今、自分もリーダーなんて言われるようなまあまあ偉い立場になって、
思う時がありますが、この言葉は平気で口にします。事が上手く進まないと。
結局、余裕が無くなると、物も人も見えなくなってしまう。人の弱さではありますが、この弱さを互いに受け入れて、やっていくしかないように感じます。
ベースは榛名山に移される。
そこにまだ進藤はいません。度重なる反抗的な態度を総括するため、新倉ベースの後片付けを命じられ、十分な自己批判をした後に合流ということになったようです。
加藤が釈放され、戻ってきます。
彼は、閉鎖された山岳ベースにずっといなかったので、外の世界の動向を冷静に見ています。
そのため、このままではいけないこと、山を下りて、皆と合流して、合法的な活動をするべきことを進言。
しかし、既に銃を配備して、法の中で革命は起こせないという森の考えが永田にも同調されており、加藤は逆に総括の対象となってしまう。
総括援助と称して、森と永田は、皆に加藤を殴ることを指示。
この時、尾崎はかつての森が敵前逃亡した内ゲバ事件のことを言及して、森に異を唱える。森は激昂して、尾崎もまた総括の対象となる。
尾崎は餓死のような形で死亡。
加藤は初回の総括後、小嶋とキスをする姿を見られ、再び、小嶋と共に総括。
そんな異常な状況になった榛名ベースに進藤がやって来る。
尾崎の死、加藤と小嶋の痛々しい姿を見て、森と永田を非難。仲間たちにもどうして止められなかったのかと声を荒げる。
もちろん、そんな言動は総括の対象。
進藤も総括という名の暴力的な制裁により死亡。加藤と小嶋も衰弱して死亡。
その後、山崎もその思想を森に咎められ死亡。
元々、美人であるがため、妊娠しているがため、女を醸してしまう大槻、金子に敵意を剥き出しにするようになっていた永田によって、二人も死亡。
森と永田は逃走中に逮捕。
残ったメンバーがあさま山荘事件を起こす。
翌年、森は拘置所内で自殺。
永田は1993年に死刑確定、2011年に拘置所内で病死する。
加藤や進藤といった、閉鎖空間で異常性を剥き出しにするようになってしまった人たちに外の風が入り込んだのに、それを拒絶してしまったようです。
これまでしてきたことが、誤っているかもしれないとか、悪い方向に進んでいると分かっていたとしても、それを変えるような人や事は、受け入れるより、拒絶して排除した方が手っ取り早いと考えてしまうことは多いような気がします。
手を差し伸べるより、殴る方が簡単とか、優しくいるより、横暴でいる方が楽とか。人の自らの求める理想像は分かっていても、そう出来ないもどかしい弱さが浮き上がってくるようです。
革命を目指す者たちが、自分たちを革命することからは逃げて、ただただ、組織ではなく、個人の考えに固執してしまった悲劇なのでしょう。個々が互いに変わり合っていかないと、求める理想への道は、単なる個の欲望を追求する道となってしまうような感じでしょうか。
年表をたどりながら、拝見した舞台を思い出すと、数々の流れを変える可能性のあったシーンが思い起こされます。
あ~すれば良かったのにと批評することは簡単で、でも、それが出来なかったことをどう考えればいいのかは難しくてよく分かりません。
人生は、こんな風に選択ばかり押し付けられるような気もします。そのたびに、いつも最適な判断など出来ませんし、その時の環境で幾つかある選択肢全てが選択の対象となるわけでもありません。
捨て去った選択肢から目を背け、選んだ選択肢に執着する。執着せざるを得ない余裕の無さが悲劇を生み出しているようにも見えます。
それでも必死に生きていた。生きたかった。
事件の犯罪性、悲劇に対する憤りはもちろんありますが、私はこの舞台の上で描かれた連合赤軍のメンバーたちが、彷徨いながらも自分自身も社会も生きることを目指そうと必死だったことを知ったように思います。
総括という名の暴力行為で誰々が死にました。記載されているその言葉だけでは見えてこない、そこにあった加害した者の想い、死んでいった者の想い。
それを見詰めて、本当にあの当時にあった、世を変えたいという純粋な想いがどうであったのかを考え、それを行動に移して進んだ道がどうしてこんな悲劇を生み出す結果に結びついてしまったのかを各々が検証してみることは、決して最善であるとは思えない今の世の中を私たちがどうしていけばいいのかということにたどり着くように感じます。
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