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2016年5月 5日 (木)

演り人始動2都市ツアー【演り人知らズ】160504・160505

2016年05月04・05日 中崎町コモンカフェ 

(Via B、シュA : 35分、50分)
(Via A、春B : 30分、45分)

名古屋・大阪の4人の作家の脚本を、各々ダブルキャストの作品として公演する企画。
8本全て観られたら良かったのだが。
体調が悪いというか、右腕がずっと痺れっぱなしなので、はしご観劇を控えていることと、GW中は仕事もまずまずあるということで、結局、ViaBとシュAの回しか予定が立たなかったのだが、あまりにももったいないので、追加で観に伺う。
このブログを書いた後に、2時間20分の芝居をはしご観劇するが、大丈夫だろうか。

3作品拝見したが、カフェ公演ということもあり、コーヒーが一応、キーワードになっているのだろうか。
ほろ苦さの中に、爽やかな酸っぱさ、ほんのりとした甘さ、どろっとした濃さみたいな様々な味わいを感じられる作品が並んでいるようだった。

<以下、あらすじがネタバレしますので、公演終了まで白字にします。公演は明日、6日休演で7日土曜日まで>

・「Via Ethiopia」 Bキャスト、Aキャスト

男は女の一挙一動を見詰める。彼女の表情、動き、言葉、音。その瞬間を逃さないように。
夕方。青春の時間が始まる。部活動で皆がどこかへ向かって走り出し、砂埃が舞うグラウンド。その向こうの世界を覗き見る。
友達は男の女への想いを知って、仲を取り持とうと、自販機役になる。
彼女はブラックコーヒー。いつの間にか飲めるようになった。渇きを潤す。
ニッと歯を見せる笑顔。その歯は茶色。
湿った長い睫毛についた砂。彼女の潤った肌を想像する。そんなみずみずしさも、いつか侵食されてしまうのだろうか。
汗ばんだ手。それを恥ずかしがる彼女とはフォークダンスで手を繋ぐこともできなかった。
3人で写メ。彼女の携帯が鳴る。それは、彼女がこれからするべきことを告げる電話。
男はコーヒーにクリープを入れる甘い男。ブラックコーヒーを飲める彼女。その苦さを味わうだけでなく、それに塩をひとつまみ入れる飲み方も知っているみたいだ。
もっと勇気を出して、自分の想いを伝えろよ。
友達は飛行機になって男を赤道直下の異国の地へ。
拡がる砂漠。いかがわしい外人。どこかへ連れて行かれそうになる。危険だと本能で悟って、その場を逃れる。冷や汗は塩のようにしょっぱかった。絵に描いたような日本人になるところだった。絵に描く。嫌なことでも絵に描いて、自分に刻み込まないといけないのだろうか。
男は甘さだけを求めることから卒業し、苦さやしょっぱさの味を受け入れようとし始める。
雨宿りする男と女。ここだったらちょうどいい。
二人は砂埃の先にある世界へと自分が編隊する飛行機でたどり着く。
友達はブラックコーヒーを飲み干す・・・

断片化されたシーンの繰り返しで話を膨らましながら展開する。ありのまま観ればいいのだろうが、どうもそういう観方が出来ず、こうしてブログに感想を書く時に、勝手に再構成してしまうの私の常だ。
恐らく、自分の印象に残ったシーン重視で、よく分からないところは捨ててしまって再構成するので、意図するところと大きく離れたことを感じてしまうことも多いような気がする。
ただ、こうして、観たものが、自分だけの作品になってしまうような感覚も悪くはなく、こういった作品の楽しみの一つになっているのかもしれない。
ブラックコーヒー。大人になった象徴。
青春。サラっとした爽やかの中に、渇きと飢えを覚える。
想いを寄せる人の潤った体にくっつく青春の砂や、白く輝く歯に色づく大人の色。
その姿は美しく映り、憧れや愛情を生み出す。
でも、自分自身では、その潤いはぬめりのようで、砂はまとわりついてなかなか払いされない未熟に映る若さや、着色はいつまでも若いままではいられないという大人に向かうことへの畏怖となって、複雑な心情を生み出しているかのよう。
今までとは違うどこかへ向かわなければいけない時、これまでの安泰の日常が崩れてしまう時。
そんな不安が渇きや飢えとなって襲ってくる。
子供だったら、水やジュースを飲み、ごはんを食べる。
大人になろうとする者たちは、苦みと甘みを兼ね備えるコーヒーを飲む。
大人になったら、苦味を味わえるのでブラックを。でも、苦いだけのものを楽しんでいるのではない。そこに、自分の経験から得たしょっぱい思い出が、人を育てるかのように、そこに辛さがひとつまみある。そして、甘みは人を想う、想われる愛情から得る。
漠然とした大人への不安から雨宿りするかのように逃れて、二人で心地いい場所を見つけ出し、渇きと飢えから解放されようとする。
そんな青春から大人へと向かう若者の一時を描いているように感じる。
と、ここまでを、Bキャストを観た日に書く。
翌日に観ることができるようになったAキャストを観劇後に、Bキャストで見落としているようなところを補足して、最終的な感想にしようと思っていた。
ところが、いざ観てみると、違う作品なのではないかとまでは書き過ぎかもしれないが、それくらいに両キャストで作風が異なっている。
共に、ちょっぴり大人で巧妙さも垣間見られる可愛らしい女性と、どこか幼稚で大人に成りきれないおバカな男二人の青春恋愛もの風の設定はもちろん同じ。
Bキャストが、特にその感が強く、言うならそのまま少年誌にあるような青春恋愛コメディーになっていて、甘酸っぱくもこの歳になるとどこか懐かしい思いが浮き上がる。
これに対してAキャストは、言葉で説明しにくいが、どこか艶かしく、少年誌よりかは少し対象年齢が上のような感じだ。
単なる青春のヒトコマでは無く、コミュニケーションが疎になりドライで渇いてはいるけど、渦巻く妬みや人を傷つける心が湿りとなってはびこる世の中で、未来ある自分たちがどのように生きていくのかを、男女恋愛を超えた心の通じ合いから考えさせているようだ。
大人へとなることの不安というかは、これから降りかかってくる災難や不幸にどう向き合えばいいのかといったような感じ。
色々なものに満たされ、渇きや飢えを肉体的に感じにくい世の中だけど、精神的な心の渇きや飢えを見詰め、本当に潤った生き方を考えさせているような感覚も得る。

・「シュガー、ミルク、スプーン、カップ、コーヒー、ダーリン」 Aキャスト

自分の喫茶店に連れて来た女にコーヒーを振舞う男。
その女の姿は、幾らかの女と付き合ってはきたものの、男が今でも鮮明に記憶に残っている初恋の女。
でも、女はコーヒーの飲み方が分からない。
シュガー、ミルクを入れること、スプーンで混ぜること。それ以前に、カップという物体に液状に入っているコーヒーという存在が理解できていない。
それというのも、彼女は宇宙人。
ついさっき、宇宙船が不時着したらしく、病院の前で液状の姿であった女を保護した。
女は記憶を読み取ることができるらしく、男の強い記憶として存在する初恋の女性の姿にその形状を変えているようだ。
コーヒーの飲み方を教える男。
自分の好みでシュガーとミルクを混ぜて、自分の適する温度に冷まして、自分のペースでゆっくりと飲む。
技術が発達し、あらゆる食べ物や飲料が人間にとって最適となるように配合されたものが供給される今の世の中にとって、コーヒーなんてものはアナログで人気が無い。
だから、この喫茶店にもなかなか人が来なくなっている。
地球にやって来た理由、住んでいた星のこと、生殖の仕方、恋についてなどなど、二人は会話をする。
地球にやって来たのは移住のための調査。住んでいた星は、文明は発展したものの、自然破壊などにより住むことが厳しくなっているらしい。
生殖は、子を産む個体が決まっている。地球で言えば、蟻と同じだろう。星にもそんな蟻のような生き物は別にいるようだが。
男は蟻の行列のことを思い出す。行列の蟻を一匹潰す。すぐに後ろから蟻が詰めて来て、何も無かったように行列はまたどこかへと向かう。
今の自分もそれと同じだろうか。
恋はなかなか説明が難しい。記憶は読み取れるものの、そこにある思考までは読み取れないという女。そもそも、そんな感情を記憶する脳の場所が無いらしい。
たとえ振り向いてくれなくても、想わざるを得ない気持ち。
誰も来ない喫茶店。でも、好きだからずっと続けている男。
喫茶店に恋をしていると言う女の言葉に、笑う男。女も自然に笑みを浮かべている。
おかわりのコーヒーに合わせて、ラジオで音楽をかける。
技術が文化、芸術に利用されている。
女の星ではもう消えてしまった考えだ。
男は苦しみ出す。
心臓を患っており、もう限界が近いことも知っている。
こんな女を連れて来たのも、もう終わってしまう自分と向き合っていたからかもしれない。
そんな男の姿を冷静に見ながらも、女は男に自分のことを語り出す。
自分の星がもう限界に近づき地球を侵略するつもりであったこと、自分自身も行列の蟻のように、集団の中の見えない力に導かれてしまっている多数の中の一匹に過ぎないことを。
男はそれを否定し、記憶から生み出された初恋の女性に話しかける。
忘れていた喫茶店を続けていた本当の理由が蘇る。初恋の女性に、コーヒーをただ飲んで欲しかった。
二人は自分たちの終わりを抱えながらも、ただただ笑い合う・・・

男女二人芝居。
紳士的で優しい雰囲気の喫茶店マスターの男が、心も体もここにあらずのような不可思議な空気を醸して静かに座る女にコーヒーを振舞う冒頭のシーン。
コーヒーの飲み方、それどころかコーヒー自体の存在を知らないと言う女。
この唐突な不条理設定は、私の中では別役実作品が思い出され、過去の経験からいきなり身構えて観ることになる。
これは早い段階で、コーヒーだとか、それを知らないということがどういう意味合いなのか、メタファー的な要素を頭の中で埋めないと、大変なことになるぞと。
ただ、観終えた今、それほど身構えることも無かったようだ。
一つ一つに意味付けして観なくても、その時感じた気持ちを繋げているだけで、少し苦しい感覚も残るが、通じ合っていく男と女の心の寄り添い合いに心震わせることが出来るようになっているみたい。
お二人の繊細でじっくり見せながら展開する話や、終始漂う穏やかな空気が、胸が締め付けられるようだが心地いい。
初恋の女の姿という単なる形から、そこにある心を、自分自身を見詰めるかのように感じ取っていく男。その男の姿から、無かったはずの自らの心を引き出され、失った感情、笑顔を取り戻す女。
自分たちは蟻の行列の中の一匹のように、ただ集団の中で個々が孤立して漠然と歩んでいるのではない。
他の蟻たちのことを想い、自分自身もそんな想ってくれる周囲の中にいる。たくさん人がいるけど、独りぼっちなのではなく、きちんと皆と繋がり合った存在なのだということに気付く。
何かを喪失してしまっている人間が、それをもう一度、自分の中に再生していくような心理療法のようにも映ります。
また、芸術の在り方について言及しているところもあるようです。
飲みにやって来ることは無いのであろう男の初恋の女。でも、その女のことを想いながら、彼女のためだけに作って飲めるコーヒーを用意して待ち続ける。
自分はいい豆でコーヒーを作って、それに合ったカップに入れて提供する。シュガーとミルクは彼女のお好みにすればいい。混ぜるためのスプーンはもちろん添える。
コーヒーが作品、カップは劇場みたいな感じですかね。シュガーやミルクは、その作品中に込められたテーマみたいなもの。それをどう配合して味わうかは客のお好みで。きちんと混ぜられるような、分かりやすい演出がスプーンでしょうか。
コーヒー、カップ、シュガー、ミルク、スプーンとか一つ一つは、演劇作品を創るための技術なのでしょうが、それを芸術とし、文化にまで導くには、そこに飲んで欲しい人を求め続けることが必要なのかもしれません。それは苦しいことのようで、男が長年、身を削りながら、必死な姿でいたことが表しているようです。
そして、その姿がいつの日か、事象でしか物事を捉えられなくなってしまっている人や、失ったものを侵略して奪うという考えがはびこる社会の中で不安ながら生きる人たちに、本当の心と、安らぎや希望を与えるように思います。
最後に映し出されたエピローグ。
心を通わせた二人の美しい姿は、喪失した人間がもう一度、自分と向き合い、その中にある自分の想いを得られて生み出された希望の姿、そして、この作品が芸術として、人の頭に残した記憶と感情を描いているように感じます。

・「春の調べ」 Bキャスト

卒業式で送辞を読むアズサ。 生徒会長で文芸部の真面目な優等生。でも、これが先生に受けがいいこともよく理解している。
送辞を読む役は先生から言われた。
不安と緊張で断ったが、先生が君にピッタリだと言うから。先生が私を特別視してくれたことへの喜びが湧く。
先生は、忙しいといつも保健室で寝たりしていた。
部屋にはコーヒーとオレンジジュース。先生はコーヒー。オレンジジュースは、それを飲む子がいて、それがこの部屋にその子が来ることの名目になっていることを知っている。
ユキ。自由奔放で大人になりたいといつも思っているようなませた子。
保健室で出会った。
カーテンの向こうで何をしていたのかは知っているけど言わない。ベランダでタバコを吸っていることに置き換える。
二人で話をしていると、さりげなく口づけをしてくる。ユキが男にモテる理由が何となく分かった。だから、私も口づけをし返す。
送辞を読む練習を先生に頼み、一緒の時間を作った。家では出来ないからと。
背徳感。
先生はそれは造語だと言う。そして、それを持っているかと聞くと、あると言う。
それは私のことなのだろうか。自然に涙がこぼれるが、先生はごめんとめんどくさそうに言うだけ。
私の本当の気持ちなんか知らないくせに。それはユキもそう思っていたのかもしれない。
誰かの特別になりたい。先生はいつでも特別の存在でいられる立場。特別になれない人はどう生きればいいのだろうか。
ユキのそんな思いはアズサと同調している。
女だから。月に一回、背徳を抱える大人。
今、ユキは先生と出会っている。
まさか、こんな仕事で先生を相手にすることになるとは思わなかったが。
アズサの話をする。
父からDVを受けていたアズサ。母もかばってはくれなかったらしい。
逃げるように自分の部屋へとやって来て、それから一緒に暮らしている。
今は新しい父がいるはずだが、そのまま。
たまにヒステリックを起こして、愛を確かめようとしてくる。
卒業式。
送辞を読み上げたアズサは、自分の卒業式で答辞も読んだ。
先生はそれを本を読みながら、耳にしていた・・・

この作品もVia Ethiopiaと同じく、シーンの断片化とリフレインを多用して展開。
女性という特性も垣間見られ、毒ある耽美な世界が繰り広げられており、私が男であることもあってか、描かれていることが抽象的に映り、なかなか難解です。
自分自身の存在の肯定を、送辞と答辞という、今から一歩踏み出すための卒業のような感じで捉え、自分に問うてるような感じの作品でしょうか。
誰かに認めてもらうといった、人に依存することでしか存在意義を見出せないようなアズサ。それはきっとユキも同じ。
それが背徳なのかなあ。肯定できない自分が存在していることが。
先生も依存はしており、それが人の本能だとばかりに自身を肯定化しているように感じます。見ていて嫌悪を覚えますが、ふと自分のことを考えるとそんな部分も多々あり、そのことを否定することができません。それが獣のようだと拒絶してしまうような感覚が女性にはもしかしたらあるのかもしれません。
自分の想いを綴った送辞は、自分自身が今とは変わって、一人で歩むことを喜びとして感じて生きたいという願いが込められているように感じます。
一人で歩むことの勇気を出すための力は、本来ならば親や先生、友達が何かしらの形で与えてあげられればいいのでしょうが、このアズサには、それがあったのでしょうか。
観た限りでは、まだその願いは彼女の心の中にとどまり、そのことで自身をまだ苦しませているような感覚を得ます。
最後の答辞を読むシーンも、自身の送辞に対する答えを決意を持って語っているようには見れず、時間が来たので、そこから追い出されてしまったかのような厳しさを感じます。
閉じた世界から放り出され、そこでまた閉じた世界を創ろうと不安と畏怖の中で未だもだえ苦しんでいるようです。
それでも、ユキがいつかはアズサも男を作って出て行くのだろう語っているように、人生の一時に、自分の存在が揺らぎ、人に依存するように頼ってしまう時期があるのかもしれません。それは、当たり前のことでもあり、そのことで自分自身や人との関係を見出す良き経験になっているようにも感じます。
卒業するのにどれくらいかかるのかは、義務教育でも無いから分かりませんが、きっとそんな苦しみの中にいた間に得た人からの想いも、愛として捉えられる日が来るように思います。

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