アストライアー【アマサヒカエメ】160325
2016年03月25日 HEPホール (130分)
先日、拝見した大阪ゲキバカの作品で、あまりにも下劣なクズを名演技で魅せた方がご出演ということで、その方目当てでどんなものかと足を運ぶ。
奥深い真剣なテーマ、それを魅せる繊細な演技、程よい笑い、様々な考えを膨らませられる脚本と、満足の一品。
何かを失ったり、辛い環境に追いやられたり、最悪は生死を分かつことになったり。
降りかかる様々な運命や試練に翻弄され、自己を見失ってしまいそうになる人間。
でも、大丈夫。
自分は自分であり、また同時に、他人にとっても、やっぱり自分である。
喪失による傷跡や生きる環境での自己否定により、失いそうになってしまう自己は、必ず人同士の想いによって修復されて、取り戻すことが出来る。
人が生きるということは、その人が誰かのために絶対に必要であるという、命の価値を見出すものだから。
そんなことを感じる話でした。
<以下、ネタバレしますので、公演終了まで白字にします。公演は日曜日まで>
路上の猫と交通調査員。
猫はジェンガで遊びながら、調査員にクソ生意気な口調で、今何人なのかと話しかける。
調査員がご主人様申し訳ありませんと謝り、車の数を答えると、質問に的確に答えない人間の愚かさを語り出す。
0人。調査員は無表情で感情無く答える。
どうして、こうも無感情なのか。欲とかは無いのかという猫の質問にも分からないとしか調査員は答えない。考えることをやめたかのように。
あるアパートの一室。
カヅキは、リエと同棲中。
今日の晩御飯は、カレーとシチューどっちがいい。そんなリエの質問にどちらでもと答えるカヅキ。
思わず溜息をつくリエに、カヅキは怒りを露わにして、思いっきり殴りつける。いわゆるDVってやつだ。
カヅキはすぐに、優しく悪かった、食材は俺が買って来るからと言って部屋を出て、車に乗り込む。
ある家族が住む家。
父と母とカケルと妹のエリ。
今日の晩御飯は、カレーとシチューどっちがいい。そんな母の質問にどちらでもと答えるカケル。
エリが昼が友達とシチューだったと言うので、カレーに決まる。
カレーが出来上がり、皆で食卓に。
父は美味いと、エリはグルメ番組のレポーターのような口調でふざけて品評をする中、カケルは何も語らず、無表情。母が少し辛めにしたんだけどという言葉にも反応しない。
カケルはカレーをほとんど残して、一人、ソファーに。タバコに火をつけて、エリに嫌味を言われる。
カケルはタバコの火を消し、タバコを買って来ると家を出る。
衝突音。
誰かが車で轢かれた。
カケルは倒れて動かない。車から降りてきたカヅキは、真っ青な表情で俺じゃないと言いながら、車を置いて逃げ出す。
猫は調査員に聞く。今何人。調査員は2人と答える。
逃げ出したカヅキは、カケルと出会う。
正確に言うと、カケルは事故で死んでしまったので、カケルの幽霊と。いや、それも不正確な書き方。
逃げ出したカヅキはカヅキではない。カヅキの肉体に宿ったカケルだ。
逆にカケルの方は、カケルの霊体に宿ったカヅキ。
つまりは入れ替わってしまったということらしい。
よくある、ぶつかり合って入れ替わったなら、もう一度ぶつかり合おう。二人は勢いよく、ラリアットを互いに仕掛けるが、ただ倒れるだけ。
そんな二人の姿を面白そうに見ている猫。
元に戻れるよ。ただし、互いの合意が必要だけど。
合意も何も無い。カヅキはすぐに戻せと。しかし、カケルは考え始める。戻ったら、自分は死んでしまう。戻らなければ、自分は生きられる。
そう、自分として死ぬのか、他人として生きるのかだ。それも、加害者である人殺しとして。
決断はつかない。
猫は時間はたっぷりあるから、じっくり考えればと飄々としている。
猫の後ろにはシーソーがある。二人の命の重さを審判するかのように。
カケルとカヅキは、カケルの家へ向かう。
家では葬式をしていた。
家族は、葬式を終えて、寿司を食べている。
その近くでぼんやりと座るカケル。もちろん、姿はカヅキ。隣にいるカヅキは、姿はカケルなのだが、幽霊なので見えない。
寿司は食べない。何か匂いが嫌いだったから。
やがて、奇妙に思った家族が近づいてくる。カケルと知り合いなのかと。
カヅキの姿のカケルはとっさに遠い、遠い親戚だと答える。名前はもちろんカヅキと名乗る。
あまりにも下手なごまかし方ではあったが、うまい具合に話が通じて、信じてもらう。
そして、しばらく家に泊まらせてもらうことに。
(以後、ややこしいけど、カケルはカヅキの肉体に宿ったカケル、カヅキはカケルの霊体に宿ったカヅキのこととして記す)
カケルは文学部の大学生。ということにした。本当にそうだったから。文系科目が苦手なエリの勉強を教えることになる。
母がコーヒーを入れてくれる。
カケルはそれを口にする。思わず吹き出す。苦い。
そうだ、自分はコーヒーが飲めないのだった。でも、それは好き嫌いがまだあった頃の話。味覚障害により、味を失った自分が久しぶりに感じる苦さ。
カケルは晩御飯にカレーを要望する。
食卓では、家族がカケルのことを思い出しながら話をしている。味覚障害になってから、自分の感情を表に出さなくなったカケル。何を考えているのか分からなくなった。父やエリはそんなカケルを否定気味に話す。でも、母は、きっとカケルは自分を見失って、ずっと探していたのだと理解を示している。
カケルはカレーを口にする。
涙が出てくる。美味い。ずっと食べたかったんだ。
食卓はそんなカケルの姿を交えて、本当の家族かのように映り始める。
思い出せてよかった。味も家族のことも。
カケルを轢いた犯人の話になる。母はこのまま捕まらないで欲しいと言う。そうすれば、カケルの死を受け止めないままでいられるから。
そんな言葉に、カケルは、カケルはきっとどこかにいると答える。
カケルは、エリの勉強を教える。いつ以来だったか、エリの部屋。昔もこうしてよく勉強を教えたものだ。あんなことになるまでは。エリの成績は徐々に上がっていき、父や母にも感謝されるように。
父は母にカケルのことを話す。カケルは自分の理想だった。自分が出来なかったことを、この子が叶えてくれると思っていた。でも、味覚障害になった頃から、人が変わった。それを自分は裏切りだと思うようになってしまっていた。でも、どこかでカケルのことをずっと信じていた。それがカヅキと暮らすようになって分かるようになり辛いと。
カケルは父と二人っきりで話す機会を得る。ビールを薦められて飲む。昔からの夢だったらしい。こうして息子と飲むのが。あの子の将来を見たかった。そんな言葉が父の口から出る。
カヅキはそんなカケルの家族に囲まれた姿に焦りを見せる。こいつ、生きようとしているんじゃないのか。
リエの部屋に、刑事が訪ねて来る。
カヅキが間違いなく轢き逃げ犯であることを伝える。
そして、リエの体中の痣から、カヅキのDVに気付く。でも、リエは本当は優しい人で、いつか変わると強く答える。
カヅキはカケルをリエに会わせる。
姿はカヅキだ。リエは戻って来てくれたと喜ぶ。
これからどうするの。カケルは分からないと答える。
リエの口から溜息が漏れる。とたんにリエはごめんなさいと怯えだす。
そんなリエにカケルは優しくどうしたのかと尋ねる。
リエは変わったカヅキの姿に喜び、抱き着く。
リエは再び、刑事と出会う。
刑事はDVをし、逃走するカヅキを否定的に語る。
でも、リエはあの人は変わったのだと嬉しそうに答えている。
カヅキはそんなリエの嬉しそうな姿に戸惑いを感じる。それは自分ではない。自分は要らない人間だったのではないのか。
カケルとカヅキは猫の下へ向かう。
最初は自分が分からなくなってしまった。
でも、元には戻りたくない。自分を取り戻せたような気がする。
カケルはこれまでの自分は自分では無かった。今の自分が自分だ。たとえ、殺人犯のカヅキの姿であっても、それが自分だと。
そんなカケルの言葉を、カヅキは理解する。その通りかもしれない。
同じように自分が分からなくなり、たどり着いた答えは、これまでの自分は生きる価値の無い人間、不要な人間だったということ。今の心がカケルの自分は生きる価値がある。皆に必要とされている人間だ。
結論は出た。俺が死ぬ。カヅキはそう猫に伝える。
二人はシーソーに乗って、別れを告げる。
しかし、シーソーは動かない。
猫はからかうように笑いながら、人間って奴はとまた蔑むような口調で言う。
本心が違うんだから、二人は合意してないよ。
カケルはいつものように家族の食卓に。
父は、カケルにいつここを出て行くのかとぼかして聞いてくる。家族ではないからと。
エリは、強制するかのようにこうして毎日、家族で食卓を囲もうとする母にイラ立っている様子。
母は、そんな父とエリに、味の分からないカケルの気持ちも考えずに、美味いと平然と口にする二人にずっと腹を立てていたことを告白する。
やがて、エリの不満が爆発し、彼女も心の内を告白する。
兄のことをずっと可哀想だと思っていた。父と母の愛はずっと兄に向けられていた。だから、そうして兄を下に見ることで自分を保っていた。その兄がいなくなった。穴が開いた自分をどうやって埋めたらいいのか、ずっと辛いのだと。
そして、さらに続ける。母だってそうだ。兄のことを想っていたのではない。味を濃くしたり、辛くしたり。それに気付かないかと兄を追い込む。それは、全部、自分のため。頑張っている自分を認めてもらうためだったのではないのか。それを、今、カケルに重ね合わせているのだと。
父は黙っている。でも、父だって、カケルに自分の理想を押し付けることで、自分を肯定していたのだろうから。
これ以上の会話は止める。そうしないと、皆の自己は崩壊してしまうから。
そんな家族の姿を見て、カケルは自分自身を見詰め直す。
カヅキは再び、カケルを連れてリエの下に向かう。
カヅキはカケルにお願いをしていた。
リエと別れてくれと。
カケルは言われたとおりに、リエにもう愛せなくなったと伝える。
カヅキは、それでリエは安堵すると思っていた。
でも、リエは泣き崩れ、もう本当に私への愛情は無くなってしまったのか、どうにかならないのかと自分の愛を求めてくる。
カヅキは、リエに届かない声で、どうしてなのかと叫ぶ。
カケルとカヅキは再び猫の下へ。
二人で語り合う。生きていた昔のことを。
たくさんの楽しいことが思い出される。
加害者と被害者、それも生死で分かたれた関係なのに、笑い合って語り合えるくらいに。
猫が早くしてくれと、せかしてくる。
たかが、猫のくせに。
調査員も実は、かつて自分たちと同じような加害者と被害者で入れ替わった経験をした者だったらしい。
彼は被害者側だったらしいが。
結局、彼は決めなかった。考えることを止めて、自分の意志を捨てた。それで、あんな無感情になり、こんな猫をご主人様だなんて言って従っている。
自分たちは、結論を出した。考えることを止めない。生きようと死のうと。
自分が何者なのかを考え続ける。それが人間だからだ。猫なんかに分かってたまるか。
二人は、猫に惑わされることなく、自分たちのペースでシーソーに乗り、別れを告げ合う。
シーソーは傾く。
カケルが上に。いや、これまでの書き方では無くなる。カヅキ。身体も心もカヅキ。
カケルは消滅した。
カヅキは、ポケットの中に入っていた自分の身体がカケルとして生きていた頃に母からもらったおにぎりをほうばる。
カヅキの下に刑事が近づいてくる・・・
実際に描かれたシーンの時系列とはかなり違ってしまっていると思いますが、自分の頭の中で組み立て直したあらすじはこんな感じ。
自己とは何かを見詰めるような話なのでしょう。
ただ、それを見詰めるための題材は、作品中に色々な形で散りばめられているような感じです。
加害者と被害者といった関係上、人の命の重さ、ひいては死刑制度への言及も入っているようにも感じます。
人を殺したから、死んでもらいますといったような単純議論で人の命は扱えるものではないのだと思います。
この作品の場合は、交通事故だから、殺人とかとは少し違いますが、犯罪を犯すからには色々な理由があるのでしょう。その中で、最近多い、生きることへの執着があまりにも欠けていて、こんな人生どうでもいいとやけを起こしたかのようになされる犯罪。
加害者は、自分はどうせダメだから、必要じゃないからと、本当に人生どうでもいい、生きたくない、死にたいと思っているのか。
自己を見詰める時間の中で、そんなことは無かった、自分のことを想ってくれる人がいた、愛してくれる人がいた、必要だったと知ることは、自分と同じようにその価値ある命を奪った自分自身への悔いを深めるように思います。
よく、被害者が死なずに、加害者が死ねば良かったのにみたいな感じで、悪いことをした奴の命が軽いみたいな形になってしまうことがあると思いますが、そこに重みの差は本来は無いのだと思います。どちらもこの作品のように価値あるものなわけですから。
自分勝手だけど、明日を生きたいと願う加害者。死にたくないと思う気持ち。それは、同じような気持ちだったはずの被害者の命を奪い去ったことへの償いに繋がるのだと感じます。
最後、シーソーは加害者側の方が上に上がり、死んで消滅してしまった被害者の方が下になっています。加害者の命が軽いのではなく、被害者の命は重いことの表現だと思っています。その重さ、それを奪ってしまった自分をこれから背負って、生きていく。それが命を大切に生きることへとなるように感じます。
リエとエリは同一役者さんが演じられており、そのキャラも兄、恋人への依存から同調性がある。
家族から愛されていない。この作品ではそこまでではないが、ある種のネグレストやDVを受けた人の歪んだ愛情表現や愛の受け入れによる自己肯定の仕方が、他人依存であることから、容易に自己崩壊に導かれるリスクを示唆しているようです。
母の家族の中での頑張る自分が自己というような家族依存や、父の失った自分の理想像を息子にゆだねるという疑似的な自己といった形もそれにあたるように思います。
周囲の誰かがいるから、自分もいるというような相対的な自己は、まあそうなのでしょうが、あまりにもそれに囚われ過ぎると、その誰かがいなくなった時に、いきなり自分も見失ってしまうことになるのでしょう。
自己と言っても、それは本当に自分だけで形成されているような立派なものではなく、人間ですから、色々と欠けてしまっているところを、家族、恋人、友人、先輩後輩、仲間など周囲の人たちに補ってその穴を埋めてもらっているような感じです。
それが多過ぎたり、ある誰かに偏り過ぎると、ボコボコ穴が空いたり、大き過ぎてふさげない穴となってしまうような感覚を得ます。
空いた穴をまた何かでふさげればいいのでしょうが。そのためにも、独りで生きていては、それもかなわず、自己崩壊の中へと陥ってしまうように思います。
また、そんな穴だらけの自分は、もちろん、自分だけでなく、他人もそうなはずです。そして、その他人の穴をふさいでいるのが、もしかしたら自分なのかもしれません。そのことに気付いた時に、自分が想われている人であることへの誇り、安堵と共に、同じように自分も人を想える優しさを手に入れられるように感じます。
味覚障害は、何かのメタファーですかね。
大切な何かを喪失してしまった人というような感じで捉えて見ていました。
喪失することで、自分の殻に閉じこもる。そうすると、失ってしまうというか、受け入れられなくなってしまうのが、どうも人の想いのように感じます。
カケルは味覚を失い、自分を表現することを止めてしまった。一表現手段を失ったのですが、まるで全てを失ったかのように。何かを喪失した人ってそんな感じですかね。
そうすると、大丈夫とかいう人の言葉も全て否定、拒絶といった負の感情に支配されてしまう。失い続けるみたいな負のスパイラルが見えてきます。
この作品のようなことは現実には起こらない虚構ですが、もし、その喪失したものをもう一度与えられることが出来たなら。
それは自分を取り戻せる。
だけではないように思います。
カケルは自分を取り戻せたと言っていますが、彼はその先の変わる自分を見ているような発言もしています。
逆に何かを得ることで、これまでの自己を喪失して、新しい自己を生み出しているかのような印象を受けます。
大事なのは、喪失したものを戻すのではなく、あった時に得ていた周囲の人の自分への想い、自分が抱いていた周囲の人への想いに気付くことなのかと感じます。
カレーをずっと食べたかったことに気付いたカケル。それをずっと作り続けてくれていた母の存在に気付くみたいに。
家族が恋人が友人がみんな、自分のことを少なからず想ってくれていた。それを喪失した自分が、殻の中で全てを拒絶してしまっていたことに気付き、その殻を破ることが出来るようにすることが必要なのでしょう。そうしないと自分もその周りの人のことを想うことが出来ませんから。
ただ、この作品ではそれに気付いたかのようなカケルには死が待っています。
だから、自分を喪失した家族に、そうならないように、出て行ったのでしょうか。死んだカケルの代わりのように、カヅキの姿をしたカケルでその穴を埋めるのではなく、家族が想い合っていた頃のことをきちんと思い出して幸せに生きてくださいと祈りを込めて。
猫は何でしょうか。
運命、喪失の要因、人を救うようなことはしない神様、助けてくれなどするはずもない社会。
何にせよ、自分を見失いながらも、自己を見出そうと必死に懸命に生きている人間様をおちょくっているような奴だと思うのです。
生きること、自分が何者なのか。そんなことを考え続けることが、死なずに生きることなのかと思います。
そんなことどうでもいいとなってしまえば、それは調査員のような、猫に翻弄され、従属するだけのものとなってしまうのでしょう。
喪失させるなら、させてもらっても結構。
人間は、その喪失で生まれた自己の穴を、互いに埋め合い、補い合うことが出来る、人への想いの力がありますから。
それは、現実にも、多くの悲しい事件が起きる中で、証明されていることだと思います。
人間は、あなたが思っているように愚かで弱いのでしょうが、それがある限り、強く生きることを捨てないと思います。
そんな言葉を猫に突きつけるような話だったように感じます。
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コメント
SAISEI様
旗揚げ公演とは思えない素晴らしい公演でしたね。
若干の不条理を含みつついろんな題材を盛り込みつつ上手く消化されていた作品と感じました。
役者の演技も良かったですし。
父親役の倉田さん、御名前は記憶にあるし過去に拝見したことあると思うんですがステキな演技でした。富良野塾出身のようで。
母親役の松岡さん、声の雰囲気とか大好きでした。USJなんかで活躍されてるみたいですね。
上記夫婦は安定感抜群でした。実生活でも父親・母親なのかなあ。
エリ/リエ役の原さんも今回で完全に名前を印象づけられました。暇ステ過去にも何回か観に行ってるけどあまり印象に残ってないなあ。
山咲さん。ホンマに大学生か? という過密出演スケジュール。演技歴約2年とは思えないですね。いろんな役をこなすことができる方かなあ、と思います。
和田さん。最大のお目当ての1人。私が和田さん好きなのは前にもコメントしてますもんね(笑)
大澄さん。今回はこの猫がウザい感じですか(笑) 自由劇場のレベルの高さがわかりますね。
箱田さん。このレベルの作品を続けはったらスゴい方だな、と。役者としても舞台上の姿は普段とは違った感じでした。大物感はあるので大成しはる感もありますが個人的にはいつもコメントさせていただいている理由もありあまり好感は持てないですが(笑)
オリジナル作品にしては珍しく脚本と演出が別なんですよね。
投稿: KAISEI | 2016年3月28日 (月) 12時52分
>KAISEIさん
私もこの作品の素晴らしさ、それを創り上げた力に驚いています。
一人一人の役者さんの魅力が、様々な要素を盛り込んで生死を捉えようとする話に巧くはまっているなあと。
役者さんは山咲さん、和田さん、松岡さん以外、記憶に無いんですよね。
私、自称、昔からの暇ステファンですが、あんな女優さん、いらっしゃったかな。
あの魅力を今まで見落としていることが信じられないのですが。
投稿: SAISEI | 2016年3月28日 (月) 18時39分
SAISEI様
原千博さん。もともとは神戸大学のESSに居られたようで秋桜天丸さんのスポロン企画で和田さんと共演されていますね。
暇ステには『虚言癖』の前に入団されてるみたいです。
SAISEIさん。。『虚言癖』の記事に原千博さんの名前載ってますよ(笑) アガサ役で(笑)
投稿: KAISEI | 2016年3月29日 (火) 00時36分
>KAISEIさん
あ~、あの小説の中のアリサ、皇帝アガサかw(゚o゚)w
それなら、よく覚えている。
でも、全然、今回とイメージ違うから、初見以外考えられず、自分のブログ読み返しもしませんでしたわ・・・
私も完全に今回でお名前とお顔を焼き付けました。
暇ステ、益々、楽しみですね。
投稿: SAISEI | 2016年3月29日 (火) 11時27分
SAISEI様
倉田さんもCheeky-Queensに出演されますね。
2014年に『a play』で川添さんや飯嶋さんと共演されてますね。
今年6月に京都劇場であるシニア劇団フェステバルの劇団すずしろで演出されてます。私と誕生日が同じという(笑)
原さんは声がとてもクリアでよく通るし滑舌もメチャ良かったですからね。
いや、あの『虚言癖』のメイクやとわからないですね。会話劇は上手そうです。
投稿: KAISEI | 2016年3月30日 (水) 12時51分
SAISEI様
ここに書くのもどうかと思うんですが,前から中堅からベテランの男性役者の接客が悪いとか,最初のころは学生劇団の対応が悪い(厳密にいうなら大学の外でやる学生主体の劇団の一部)とか書いてましたが,ちょっと面白いものを見つけたのでコメントさせていただきます。元王子小劇場代表で芸術監督の玉山悟氏の書かれたもので
「小劇場の俳優は挨拶が3種類あり,落語家には挨拶が1種類しかない」はなし。前の職場のとき,ずっと小劇場の俳優と仕事してて,年に2回だけ落語家さんと仕事することがあったわけ。それで気づいたんだけど,小劇場の俳優は挨拶が3種類あるんだよ。他人にする挨拶,座組みの人にする挨拶,自分からチケット買ってくれた友達にする挨拶。友達にするありがとうがいちばん丁寧なわけ。落語家さんはねー,誰に対してもありがとうのテンションが一緒なのね。んで考えたんだけど,落語家さんはさぁ,多分,「世間のカタギの衆の財布の余りで生活させてもらってる」という意識なのではないか。けど小劇場の俳優は,自分を養ってるのは自分のバイト代だからね。んで,チケット買ってくれる人はおこずかいくれる人。だから,他人,仕事仲間,お金くれる人で挨拶使い分ける。前の職場で気がついたはなし。
すべての役者さんに当てはまることではないですが長く小劇場の役者さんと付き合ってこられた方が仰っているのですからやはり,なと。
箱田氏にもそれを感じたんですよ(笑)
投稿: KAISEI | 2016年3月30日 (水) 14時14分
SAISEI様
アマサヒカエメの次回公演、山咲さんの一人芝居なんですよね。山咲さんならあの広い空間でやっても見劣りしない気がする。何分の作品になるんやろう?
あうるすぽっとでの林遊眠さんの存在感に匹敵する空間を作れはるかどうか楽しみです。
関西小劇場が停滞してるって誰が言ってるんや?(笑) 超新星が次々と出現してるで~(笑)
投稿: KAISEI | 2016年3月30日 (水) 17時05分