ツキノヒカリ【満月動物園】151219
2015年12月19日 シアトリカル應典院 (125分)
事故で大切な人を失ってしまった者たち。
悲しみの前にやって来る、現実の受け入れ。
沈黙していた、そんな人たちが言葉を語り出して、悲しむことが出来るようになり、そして再び人生を歩み出すようになるまでの話。
死で分かつことになった事実は変わらない。その悲しみも消えることは無い。
だから、悲しむことを我慢して拒絶することも無い。
各々の立場、やり方で、悲しみを受け入れ、取り込み、心の一部として背負って、乗り越えていく。
そして、幸せになって欲しい。そんな権利があるのだから。
そんな祈りが、温かく優しく、この死神シリーズの最終話として描かれているようでした。
どこか、生きることに安堵を得て、心が穏やかになるような作品です。
観覧車倒壊事故で、奇跡的な生還を遂げ、同時に恋人の滴を失った澳は、事故のことを思い出したくないこともあって、出来るだけ遠くで暮らしたいと東京で勤め始めていた。
もちろん、落下する中、命と引き換えに一生、憑りつかれるという契約を結んだ死神も一緒に。でも、この死神こそが滴であり、彼女は生まれ変わることを拒否して、永遠に死神となった。澳の命が尽きるであろうわずか数十年の間、今をずっと傍にいるために。このことは澳は知らない。
あれから10年。
会社にも一切、事故のことを伝えていなかったこともあり、大阪に転勤を命じられる。
久しぶりに訪れた遊園地。慰霊碑もある。廃墟になった博物館も。
そこで澳は、あの事故で同じように大切な人を失った二人と出会う。
一人は、しのぶ。恋人の鹿太郎を失った。結局、顔を見せてあげることは出来なかったが、鹿太郎との子供も大きくなり、今は小4。昔は路上で歌を歌ったりしていたが、今は魚市場で何とか生計を立てている。妹もずっと疎遠だったが事故以来、一緒に住んでくれて、頼りにしている。鹿太郎は親との間で色々とあって、しのぶも事故以来、会っていない。自分は、世間的には単なる恋人で遺族ではないから。事故の詳細も説明は受けていない。
もう一人は、スタンディングスタイルのカフェを経営している潮見。妻と長女を失った。今は観覧車には乗っていなかった次女に店を手伝ってもらっている。潮見は観覧車の制御室で勤めていた。あの日は、自分の勤務時間を終えて、食事に出かける時に、観覧車の列に並ぶ妻と長女の姿を見た。手を軽く振って、それが最後となった。自分は加害者でもあるから。普通の被害者と同じように振る舞うことが出来ないでいる。
澳も、遺族ではないということで、滴の家族とは関わりが無くなっている。自分だけが生き残った負い目もあって、未だに滴の墓参りにすら行けていない。
死神は、憑りつく人を立派な魂に育て上げるため、二人の疫病神を呼んでくれている。
疫病神は、もうすぐ生まれ変わることになっている者たちという設定だ。
一人は元気一杯の女の子。今はどんなお母さんから生まれてこようかと選び中。
もう一人は疫病神になりたての新米。まだ生まれ変わる覚悟まで抱けていない様子。
澳、しのぶは、潮見のカフェで少し話をすることに。もちろん、死神たちも一緒にゾロゾロと。
それからだった。
澳の幼馴染である湊やしのぶの妹、潮見の次女も交えて、色々な話をするようになったのは。
澳、しのぶ、潮見をはじめ、その関わりを持つ者たちが、各々の立場であの事故のことを語る。
これまでは出来なかったこと。
残酷な遺体の姿との対面、孤立する遺族の悔しさ、遺族と他人である自分の壁・・・
悲しむことが出来るようになった。そして、失った人、自分、その周囲の者たちに本当に寄り添うことが出来るようになった。
今、各々が新たに歩み出そうとし始めている。
そんな姿を、死神や疫病神たちも見詰めている。
死神は澳に幸せになって欲しいとずっと願い続ける。ずっと恋をし続ける。
疫病神は、亡くなった潮見の長女と、鹿太郎に観覧車を待つ列で、手をつないでもらって一緒だった女の子。
自分たちも生まれ変わる。だから、生き残っているみんなも。
澳が、大阪での仕事も一段落ついたので、本社に戻ることになった。
そんな時に、潮見としのぶが行方不明になる。
潮見の次女、しのぶの妹は最悪のことを頭によぎらせる。
死神も協力して、捜索。
二人は北の方の山にいた。
潮見が妻と一緒に登った山。しっかり者の妻だったので、何もかも任せっきり。よくハモを買って来てくれた。妻の大好物。・・・だと思っている、潮見は。本当は潮見が大好物だから買っているのに、それに気付いていない。そんなだから、本当にこの山だったか、不安で誰にも言い出せなかったらしい。しのぶはたまたま、出会って付いてきてしまった。
でも、歩いている中、確信する。歩み出せば、思い出すこともあるみたいだ。確かにこの山。そして、その頂上から、月と海が見える。
きっと、妻は最期の時、この風景を見たのだと思う。それを何年も前に自分に見せてくれていたのだと信じている。
皆が、探し出して、迎えに来た。
観覧車に乗っていて、生還した澳。あの時、見た景色は確かにこの風景だ。
その言葉に潮見、しのぶは笑顔を浮かべる。
ようやく、あの時、あの人が見た、考えていたことと触れ合えた。
澳は滴の墓参り。そこで、ずっと自分を想い続けてくれていた湊と一緒になることを伝える。未来なんか分からない。ずっと暗闇。でも、その暗闇に差し出した手を握り返してくれる人がいる。そして、自分を前へと歩ませてくれるように、後ろから光を当ててくれる人も。だから、逃げるんじゃなくて、新しい道を進み続けていく。
しのぶは、鹿太郎との悲しみを乗り越え、自分の愛し続ける気持ちに喜びを抱く。何度でも何度でも、鹿太郎とこれから出会う。そんな人を想って生きていく強さを得たようだ。
潮見は、忘れられない妻への悲しみを受け入れる。自分には悲しむ権利がある。同時に幸せになる権利だってある。悲しみは自分の一部だと思い、それを背負って生きていく。
3人は時を経て、ようやく自分の道を再び歩みだせるようになる。
この観覧車シリーズ、最終的には例えば、A級MissingLinkの「限定解除、今は何も語れない」のように、大切な人を失うことになった者たちに寄り添うような作品になったようです。
http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/2011-ff76.html
本当に起こった震災や事故ではなく、あくまで虚構の世界。死神なんかも登場して、ある種のファンタジー要素も垣間見られるこのシリーズ。
それだからこそ、どうか心の安堵を皆に与えたいといったような祈りが強く感じられます。
と言っても、途中、ドキュメンタリータッチで描かれる、観覧車事故の現実はかなり厳しいものでした。
各々が語り、それを周囲がじっと見詰めて聞く。そこには悲しみや苦しみが、ここまで溢れてくるくらいにあなたの中にあったのかと、茫然とさせられるくらいです。
アフタートークで少し言及されましたが、このシリーズ、すっとこの應典院という寺で公演されたのは、やはり意味合いが大きいのでしょうかね。
生まれ変わりや、疫病神がお母さんを選んで生まれてくる設定とか。この時に、既に自分の人生も決まっているようで、このあたりの考えは少し仏教的な要素が強いような気がします。
失った人も自分のことを想い続けてくれている。その中で、新たに生まれ変わろうとしている。未来は暗闇。でも、それを照らす光はあるし、その不安な自分の手に差しのべてくれる手もある。
総じて、心が穏やかになって安堵を得ます。
たまに生きていることに不安になったり、悪いことをしているように感じたりする時があります。特に誰かの死と対面したりした時に。
こんな時に、ふと、このシリーズの作品を思い出すと、その温かみに優しい気持ちを取り戻して、自分の周囲の人への想いや、別れることになった人への想いも浮かんできて、生まれてきたこと、生きること、そしていつか死が迎えに来ることへの愛おしさを感じることが出来るような気がします。
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