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2015年11月24日 (火)

黒い湖のほとりで【evkk】151123

2015年11月23日 クリエイティブセンター大阪 4F ドラフティングルーム (130分)

役者さんの表情どころか、日没と共に暗闇になるので、姿もはっきり見えなくなる。大きなホールなので、声も響いて、一語一語をきちんとは聞き取れない。ただ、そこにどんな感情が籠っているのかは分かる。
そんな状態で感覚を研ぎ澄ませ、必死に想像しながらの観劇。
入ってくる話の内容は重苦しい。暗く鬱蒼とした話に希望の光は見えてこない。物理的に光を求めようにも、舞台自体が暗いし、役者さんの衣装に付けられた光の欠片もボロボロと舞台に落ちて散りばめられていく。
60分ぐらいで辛くなり、何度も時計を見るが、全然、時間が経たない。
2時間という時間が、光が見えない苦しみや辛さの中にいるとどれほど長いものか。
この感覚は、きっとこの作品の登場人物たちの時間と同調しているのかもしれない。

田舎の黒い湖のほとりで夫婦でビール工場を営む、エディとクレオ。フリッツという息子がいる。
銀行員のジョニーと、その妻、エルゼ。ニーナという娘がいる。
エディ夫妻が経営するビール工場の近くに、大都市で銀行に勤めていたジョニー夫妻が、心臓病を患う妻のことを考えてか、引っ越してくる。
互いに意気投合し、エディ夫妻主催のウェルカムパーティーが開かれる。4人だけの時間。
その2年後、悲劇が起こる。
フリッツとニーナが、湖に入水自殺。互いに手首を縛り合い、睡眠薬を飲んで、ボートに穴を空けたようだ。ビール工場には、無数のガラス片が散らばっていたが、まるでもはや二人とも血が通わなくなっているかのように、血痕は一切無かった。ガラス片は二人の崩れた心だろうか。その下に手紙が残されていた。この世界は汚い。死を選ぶ。愛は死、死は愛と言った内容。
遺体は岸辺にあげられた。
ジョニー夫妻は、この地を離れる。
それから、4年。4人は再び、この湖のほとり、今やすっかり何もなくなったビール工場で出会う。
その4人の会話から、このエディ夫妻とジョニー夫妻の間にあった亀裂、互いの夫婦の中に潜む疑念、そしてあの悲劇の事件の真相を暗闇の中で浮き上がらせようとしているような作品だったように思います。

大きなホールで声が響いて聞こえにくい。一つ一つのセリフを聞き取ることは出来ないので、話の内容はなかなか入ってきません。その代わり、テレビでよくあるような、会話の重大なキーワードが映像で映し出されて強調されます。
照明が無いので、日没と共に、役者さんの表情どころか、誰かも分からないようになってくる。役者さんは衣装に光るガラス片を付けているので、その光を追うような状態になる。その光すら、話の展開に従って、広い舞台上に散りばめられてしまう。
言葉、表情が明確に聞けず、見れずでも、そこにある、登場人物の狂気的で、感極まった悲しみ、妬み、怒りのような負の感情は吐き散らされており、これが舞台に散りばめられた光りと相まって、何やら輝いてるのに暗く冷たく寂しいものを舞台に残しているかのようでした。

戯曲が発表された年がよく分からないのですが、作家のデーア・ローアが1964年生まれらしいので、ドイツのベルリンの壁が崩壊されてからの作品でしょうかね。
何となく、時代背景がそんな感じがします。
田舎住まいのエディー夫妻の下に、都会からのジョニー夫妻がやって来る。感覚的には東ドイツに西ドイツが入り込むみたいな。
そして、それは搾取される側と搾取する側のようにも見えます。工場という労働階級と、銀行という役人階級みたいな。
それでも、労働する側は、やって来た支配側の者たちを受け入れて、頼らないといけません。
クレオはジョニーに、融資枠の拡大を、女を意識した行動で迫っている。優しさなのか、甘さなのか経営下手のエディを持ち上げながら、工場を維持するにはジョニーは重要な存在だったのだろう。
経営する。利益追求が求められる資本主義。こんな田舎でも、都会に負けずに頑張らないといけない。今までのように仲間内でのほほんとは生きてはいけない。それがいつまでも、博愛主義者であるかのように人のいいエディには分かっていない。苦労が絶えないクレオ。
大都市で支配側にいた、ジョニー。嫌な人では無いが、どこかで上から目線みたいなところはあったのではないだろうか。でも、金や地位ではどうしようも無いエルゼの心臓病。環境が汚染される都会に住むことが大きな要因なのだろうが、それをずっと捨てることも出来なかった。田舎なら、きっと改善される。都会側の都合のいいような考えが見え隠れしているように感じる。

写真。
ジョニー夫妻はフリッツとニーナが一緒に写った写真を飾っている。
エディ夫妻はフリッツのみ。
こんな事実もこの夫婦の上下関係が見えてくるよう。
ジョニー夫妻がフリッツを可愛いと思うのは、生活や心の余裕で、エディ夫妻がニーナを可愛いと思うのは、妬みや劣等感を消してからではないと厳しいように感じる。
こんな歪がある社会。その最小単位をこの夫婦間を通して見せているように思う。
こんな社会では、人を純粋に愛するだけで人と人が結ばれるとは思えない。
現に、フリッツとニーナの両親だって、もちろん、互いへの愛情はあったにしても、本当の純粋な愛から夫婦になったようには思えない。
エディは、かつて暴行事件の疑いをかけられて、人間不信に陥る中、そんな自分を許してくれたクレオには、愛よりも自分への救いを求めているかのよう。そんなクレオも、経営に関して甘過ぎるエディに対して、結局、余裕があるからそんな行動が出来ると非難的である。
ジョニーとエルゼも、外から見たら、奥さん思いのいい夫と、病気でも自分のするべきことをきちんとする立派で貞淑な妻みたいに思われているのだろうが、互いに心の底を覗き込むと、ドロドロと互いを傷つけてしまうような汚いものが渦巻いているようである。
親子の関係も薄い。
二人がどうして知り合って、愛し合っていたのかは互いの両親とも分からない。
心の繋がりが欠けていたのか。
ただ表面上にしかない隣人との付き合い。それが夫婦や家族にまで脅かされているようである。
フリッツとニーナは、こんな世界を汚いと思い、ここでは永遠に結ばれることはないと、黒い湖の方を向いて、死を選んだのか。

二人が死んだ理由はそんな感じなのかなと思っている。
この作品は、こういった社会で大きなものを失って、残された者の苦悩を描いているのだろうか。
残された者たちの苦しみ、もがきはひどい。
この作品の本質は、死よりも厳しい喪失の中で生きる者たちのことを描いているかのように感じる。
死は愛だと言及していたフリッツとニーナにとっては、死はこの地から出て行くという、出発だったようだ。そこにはわずかだが希望すら感じる。
未だに留まるしかできないエディ夫妻や、出て行ったが、まだ縛られているようなジョニー夫妻にとっては、そんなフリッツとニーナに嫉妬しているという言葉で表現されている。
大切なものを失った時、消える側も悲しく辛いだろうが、残された者たちが生を全うするために進まないといけない厳しさの方が大きいようなイメージか。
実際に4人は、この4年、過ごしたとか、進んだという印象は無く、ただただ時間を消費したような感じである。先には進めていない。
共に大切なものを失って深い悲しみの中にいる。でも、共感はなし得ていない。
罪悪感に苛まれ、互いに自己正当化や相手への告発の感情を内に渦巻かせる。
互いに加害者でもあり、被害者でもあるような夫妻たち。
かと言って、工場が成功したり、銀行でよりいい地位を得たりもしていない。
喪失の連続。得たものが全く見えない。
ボロボロと自然に光のガラス片が落ちる。時折、自分でヒステリックを起こして暴れて落としたり、相手につっかかられて落としたりする。
拾うことは無い。ただ体から光が無くなる。
それが舞台の輝き、例えば個人の犠牲で社会が輝くみたいなことになるのかと言えば、最後に残る景色はやはり暗かったように思う。
絶望の物語なんだろうか。
出会わない方が良かったのだろうか。
それとも、この悲しみを越えて、分かち合えることが出来るようになった時、互いへの思いやりを得て、我が子たちへの罪悪感を昇華させた時に、再び希望は訪れるのか。
少なくとも、私がこの作品を観た最後は、もうこれで全てお終いぐらいの暗く冷たい景色で、光が何とも寂しく哀れだったような感が残っている。

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