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2015年9月12日 (土)

ツキシカナイ【満月動物園】150911

2015年09月11日 シアトリカル應典院 (110分)

2年前の2013年01月18日に拝見した作品。
http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/130118-98c6.html
<↑あらすじを書いているので、ネタバレしますのでご注意ください>
その2年後の同じ日、今年の2015年01月18日。
母が亡くなった日です。
観たら分かりますが、この作品は否が応にも自分のお母さんを思い出す話です。

自分の時はどうだったのかな。
母とはいい意味でも悪い意味でも性格が似ていると思っていますが、それは育てられたからとかではなく、初めからそんな人だったら、一緒にいて楽しく、互いに分かり合えるから、大切にし合えるからいいんじゃんないかな、この人の子供でと自分で考えたのか。
それとも、そういう人と一緒だと、互いに魂を成長させていきやすいからと、高い魂を求める死神さんにお薦めされたのか。
確か、亡くなる数週間前には、先に逝った父と向こうで待ってるからと言っており、完全に死を意識するようになったなと思ったりしましたが、本当に待っとるのかな。
きっと、母とは生まれる前から、そして、亡くなった後も繋がってるのでしょう。
それが、人は決して終わらず、ずっと繋がりながら続いていく存在なのだと伝えているような感覚を得る話でした。

母が亡くなる前の2日間ぐらいは、昏睡状態に陥り、最期もそのままスーッと逝ってしまいました。
だから、最期の言葉はその2日前の完全昏睡になる前。
リラックスして。
そう聞き取れたので、それが母の私への遺言だと思っています。

じゃあ、どう生きるか。
リラックスというのはなかなか難しい課題です。
下手すると、適当とか、いい加減と、はき違えて、だらしない生き方をしてしまうような気もします。それだったら既にちょっと出来ているような気もしますし。
今では、きっと心のどこかに余裕のある空間を持っておくようなことだと考えています。
その場所は、人を妬んだり、憎んだり、嫌なところもいっぱいある私ですが、その私の優しく、温かく素敵なところで詰められた空間です。
だから、とっても小さいです。
この作品は、そんな空間を少し拡げてくれるような力があるように思います。

考え方が優しくて好きなのかな。
自分で決めて、生まれてきたこと。今、生きていること。これから、いずれは生を全うして死を迎えるだろうこと。願わくば、また、生まれること。そんなことが、全部、愛おしく、今の自分の誇り、生み出してくれた母はもちろん、父や一緒に生きている家族や友人へのありがとうに繋がる。
同時に、自分で決めて生まれてきたからには、幸せになるべく、また、同じように生まれてきた一緒の時を過ごす人が幸せでいられるような生き方をしないといけないのだと感じます。

人は幸せになるために生まれる。
自分がそうありたいと願って、生んでくれた母。その母や周囲の人たちにその願いが叶うことを祈られて。
止まっても、また動き出す懐中時計。壊れても、永遠に輪廻して続く想いとして残る。
流れる永遠の時間にずっと刻まれる人の想いが、生まれ死ぬ人であることの誇りや感謝を抱かせてくれるように感じます。

母、姉、彼女の愛の描写が中心で、恐らく、父の描写を意識的に消しているようです。
女の愛に焦点を絞ったのか、それとも自然にそこに行き着くのか。
男の愛は、主人公の男を演じる近藤ヒデシさん(COMPLETE爆弾)に集約されています。
ちょっと毛が薄いだけで、ごく普通の人。そんな器用でもないし、熱情的でもない。ちょっと、頼りないくらい。
でも、そんな姿の中から浮き上がる男の愛がとっても真摯で、本物だなと感じさせます。
女の、母の愛は優しく偉大で尊きものを感じさせ、圧倒的な力強さを思わせます。そんな愛を注がれて育ってきたのですから、もちろん、その愛への感謝は大きいです。
でも、私は、生み出すことが出来ないからこそ、ただひたすら目の前にいる大切な人を守ることしかできない男の愛もまた素敵なんじゃないかなと思います。

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