Bir 死出ィ【遊劇舞台二月病】150830
2015年08月30日 ウィングフィールド (95分)
ネグレストをベースに描かれた濃密な作品。
時系列や視点を変えたシーンが連なるのに、流れるような展開を巧みに見せている。
育児放棄をして、子供を捨てた、死に追いやった親。そんな親を持ち、今を生きる子供たち。
そんな人たちの関係を浮き上がらせながら、人が幸せになる権利を基に、その人たちを見詰める。
世間が常識とする善悪の問題ではない。それは何によって決められたものか分からない。今なら、マスコミの誘導によって植え付けられた概念も多い。
それに囚われて、単純に事象を見て、善悪を判断するのではなく、その事象を行う人の心に寄り添い、その人がどんな想いであったのか、その人もまた幸せを見出そうとしていたのではないかということを考えて、個人を尊重したいと伝えているような話でした。
イヌシダヨシコという女性が亡くなった。
彼女には父親が違う二人の息子、イヌシダヤマトとヒサダユウキがいる。彼女のことを知る者の中には、ヤマトを生き残りの息子と言い、ユウキの存在に驚くかもしれない。
ヤマトは結婚して、妻は妊娠中。
ユウキは、ハルナという女性ともう数年間、同棲生活を続けている。
ヤマトは幼くして、ヨシコと別れることになった。その後のことは、ユウキが知っている。
ヤマトはユウキを訪ね、ヨシコのそれからを聞くことにする。
ユウキが知っていることは、ヨシコが出所してからのこと。これはユウキぐらいしか知らない。
ヤマトは逆に物心ついてから、ヨシコが入獄するまでのことを知っている。これは世間の多くの人も知っている。ただし、マスコミにより、ただユウコを誹謗中傷し、極悪人としての情報。そして、そのことは、ユウキもネット検索などで知っているようだ。
入獄中のヨシコがどんな生活をしていたのかは、彼女しか分からない。
ヤマトが物心つくまでのヨシコの人生は、作品では回想として描かれる。
ヨシコは、学校の先生をしている父に育てられる。いわゆる父子家庭。
高校時代。部活動の顧問に熱心で、自分のことにあまり目を向けてくれない父に反発心を抱き、少しやんちゃな感じだったのかもしれない。
卒業して働いている先輩と付き合う。
保母になることを夢見て、文化祭を楽しみ、先輩にも惚れ込み、楽しい日々。
子供が出来る。先輩は、今の仕事が決して上手くいっているわけではない。体も小さく、現場では叱られることも多い。やっていけるだろうかと不安は尽きない。
鉄腕アトムだったらいいのに。そんなことを言って、自分への自信の無さを口にする先輩に、ヨシコも鉄腕アトムを見て育ったことを語る。
天満博士に造られて生まれたアトム。でも、捨てられて、お茶の水博士がアトムを家族として育てた。
だから、先輩は今はお茶の水博士。私に家族を与えてくれた。だから、きっとアトムにもなれる。
先輩は、二人で頑張っていく覚悟を決める。幸せになるために。
二人の先には、苦労もあるが、それも幸せを掴むためのものという希望の光が射し込んでいる。
ヤマトが生まれる。
でも、先輩は、自分の限界に追い詰められ、もう無理だと家庭を捨てる。
残されたヨシコ。
彼女は夜の仕事をしながら、ヤマトを育てる。
そのうち、お菓子会社で、お菓子に付いたおまけを作っているような男と出会い、妊娠。ススムが生まれる。でも、その男と一緒になることはなかった。生まれてくる子と一緒におもちゃで遊ぶなんて言っていたのに。
結婚すると言ってくれた男は、奥さんが妊娠するや否や捨てられた。後には、ヤマト、ススムの妹になるモモカが残った。
ここからがヤマトの記憶になる。
その後も、ヨシコは数々の男性と付き合っては別れを繰り返す。
楽しく生活したい。面倒はみたくない。
ヨシコはヤマトに学校にも行かせず、幼いススムとモモカの面倒を見させる。
学校に行きたい。そんなことを言えるわけもない。
働かないといけないヨシコ。じゃあ誰が面倒を見るのかと言えば、自分しかいないから。
それでも、ヨシコは、鉄腕アトムのビデオを買ってきたり、勉強のためドリルやノートを買ってきてくれたりした。
そのうち、かなり惚れた男が出来たようで、家に戻る頻度はますます少なくなってくる。
既に夜の仕事のおかげで生活保護は打ち切られている。内縁の男がいるということで、児童手当もなくなる。
その男との間に子供も出来たようだ。結婚して、ユウキ、生まれる。
ヨシコは、自分たちを捨てた。
ススムが動かなくなって数日。
ヤマトはヨシコにそのことを伝える。
100均で黒いビニール袋を買ってきて。母は冷静にそう言い放った後、床に突っ伏していた。
虫が湧いているススムの死体を、何重にも包み、おかきの乾燥剤をたくさん入れて、山奥に捨てに行った。
ヨシコと一緒に外出することなど滅多になかったので、バスの中の景色は新鮮な記憶となった。
だから、その後、再びモモカを捨てに行く時も、道に迷うことなく、事なきを得た。
数日後、部屋に警察がやって来て、母は連れて行かれた。
育児放棄。酷い母親。被害にあった子供たち。その中で生き残ったヤマトは悲哀の少年Aという肩書を得る。
ヤマトは施設に入ることになった。
施設でヤマトは、母からもらったドリルで勉強。
チカとユリという姉妹と出会う。
親からDVを受け、捨てられた二人。
姉のチカは、自分たちが捨てられたことに対して自暴自棄になっている。勉強をする気だって全く無い。そんなチカを妹のユリは非難する。
勉強して頑張らないとダメなんだよ。
どうして。自分たちは捨てられた。いらなかった。ユリは、教科書のように普通になろうとする。それが正しいと思っている。こんな私たちなのに。そんな要領よく、自分を考えることは出来ないと、チカはユリに苛立ちを示す。
ヤマトはユリといい仲になり、結婚する。
ユリは介護の仕事をしている。楽な仕事ではない。上司から、施設入所者から色々言われ、謝る毎日。そして、今、妊娠中。
チカは、ずっと風俗の仕事を続けている。日々、二日酔いで吐き散らしながらの生活。たまに様子を見にやって来るユリには悪態をつく。
自分たちのような人間が子供を産んでいいのか。ユリにそんな言葉を突き付ける。
そんなある日、チカは自分も妊娠していることが発覚する。
ユウキの記憶。
ヨシコ出所の身元引受人となる。
父とは既に離婚しているから、彼女には自分しかいない。
ヨシコのことはネットで調べた。
子供を見殺しにした極悪人。
しかし、迎えに行ったユウキの目の前に立つ女性は、ただの弱い女性だった。今になっても、父のことを口に出したりする。
一緒には暮らさなかった。同棲しているハルナに知られたくなかったから。
ハルナには、未だ自分の家族のことを話していない。そのことにハルナが不満を抱いていることも知っている。
ヨシコの部屋には何度も訪ねた。
仕事はなかなか決まらなかったので、生活費は仕送りしていた。
その生活費もあまり使わず、ユウキと、その愛する女性とのこれからの足しにしてと願っていたようだ。そして、一人が寂しいから、一緒に暮らせないのかといつもほのめかされた。
ごめんやで、ごめんやでとばかり言っていた。
そこには、極悪人などはいなかった。ただ、うらびれた悲しい女性しか。
自分はヨシコを見放した。自分の人生があるから。
ヤマトは、ユウキからヨシコのことを聞き、一緒に墓参りをする。
ヤマトは、眠るヨシコに対して、ありがとうの言葉しか言わなかった。
ありとあらゆること全てに。産んでくれたこと、ほったらかしにしてくれたこと、捨ててくれたこと、子育てをしてくれなかったこと、大事な人が出来たこと、結婚すること、子供が出来ること、家族が出来ること・・・
幸せになること。
ユウキはハルナに家庭的な幸せを求めていた。
ハルナはそれに対し、具だくさんのカレーやみそ汁で返してくれた。
ユウキはレトルトのカレーやインスタントみそ汁で十分だった。普通を知らないから。
ハルナとの間に、家庭的という言葉に差異があることを感じる。そして、それは結婚することの理想のハルナの高さにも思え、それについていけないであろう自分に躊躇していた。
自分のことを話す決意をする。
レトルトの美味しさしか今は言えない。でも、自分はきっと具だくさんの料理も好き。それを食べて幸せになれる。
チカとユリは、ずっと避けていた両親の墓参りをする。
チカは、堕ろすことを決める。そして、風俗の仕事を辞めることにする。
ユリは産む。
どちらの決断も幸せになるためだ。二人はその意志を固める。
時系列はバラバラだし、視点もコロコロ変わる。
シーン転換もいきなり。暗転を利用して、一息ついたり、衣装を変えて、今、描かれている時間と場所を掴ますこともさせない。
何とか、観劇中のメモと記憶を頼りに、繋ぎ合わせてみた。
これは酷い話だなあとか、だからといってヨシコばかり一方的に悪く言うのもおかしいのではないかとか、まあ、こうなった以上、受け入れ合って、肝心の自分たちの幸せに、躊躇したり、我慢したりせずに進めばいいのんじゃないのかとかを感じさせるのが、上記しなかった死んだススムとモモカの視点だろうか。
死んだススムとモモカは、ずっと舞台上にいる。
二人は、普通、と言っても何をもって普通なのかが、この作品の言わんとしているところでもあるのだろうが、まあ、一応、普通ならば被害者。でも、ヨシコにとっては、自分の人生を狂わせた加害者としても考えられる。
加害者であって、被害者でもある。同時に加害者でも、被害者でも無いとも言える。そして、死んでいるから、そんな加害やら被害とは関係無いとも言える。
そんな感覚が、自分たちと同じ世間の視点を生み出しているのだろうか。
謝るだけならいくらでも出来る。謝ることは責任を取ることや。
恨まない。恨んだら、普通になってしまう。
ススムやモモカの言葉は、この事件を第三者の立場で客観的に見て抱く世間の多視点での考え方を見せると共に、当事者ならではの、感情のこもった、痛烈な想いを感じさせている。
楽しい生活を。面倒みたくない。
それはヨシコの言葉であるが、言えなかったヤマトの言葉でもある。
ヨシコが言えば、非難されるべき酷い発言。ヤマトが言えば、同情を得る可哀想な発言。
この違いを母だからとか、子供だからとかで片づけてしまうと、それで終わってしまう。
その言葉が生まれるに至る様々な因子を見詰めてみて、そこにある悔いの念や、改善への願いなどの想いに心を寄せることが、個人を尊重するということなのではないだろうか。
単純な善悪に囚われてしまうことは、今の世の風潮のように感じる。
例えば勉強するは善、勉強しないは悪。
勉強する子は褒められ、しない子は叱られる。
言葉の意味合いだけで決めてしまい、そこにある人の想いには目を向けない。
極端だが、戦争の兵器を作って大量虐殺をすることを考えて勉強する子を褒めはしないだろう。料理人にでもなって、世の貧しき人たちに美味しいものを食べてもらえるような店を作るために、少しでも早く腕を磨くために勉強しないで修業をする子は、素晴らしい考えだと褒められるのではないだろうか。
頑張る、頑張らないとかも、頑張らないことを悪だと決めつけられてしまえば、多くの人が責められたような感じになり、息苦しさや生き辛さがはびこる世になってしまう。
この作品は、その中で、生む、生まないという観点で、いわば中絶の是非に行き着くような話の設定が感じられる。
人は幸せになる権利がある。これを脅かす可能性があるならば、世間が普通と勝手に決めてしまう善悪は、その個人にとっては不要なものだろう。
生まなくてはいけない。こうしないといけない。
ではなく、生まなくてもいい。こうするのもあり。こんな遊び幅を無くしてしまった世の中や、教科書に決められた、それもマスコミに誘導されるかのように決められている事とズレていたら、糾弾されるような状況は異常だろう。
ただ、だからと言って、好き勝手に自分のしたいことをすればいいわけではない。
何かをしないなら、そのしなかったことと向き合わなくてはいけない。
生まないなら、生まれてこなかった命と向き合わないといけない。
しなくてごめん。生まなくてごめん。で済ますのではなく、そのしない、生まないと決めたことへの覚悟と、悔いや誇りを基に、しなかったことで、生まなかったことで、生み出されなかった事や命への責任を抱くことが大切なような気がする。
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