考えすぎの喋り過ぎvol.1【丸山交通公園ワンマンショー】150815
2015年08月15日 元・立誠小学校講堂 飄々舎カミケ内ステージ (50分)
数日前に、この方のブログを拝見して、なかなか人生上手くいかず、落ち込んでいるようにも、その落ち込みを笑いにしようと意気込んでいるようにも感じ、何となく、面白いことが聞けるのではないかと、ちょっと足を運んでみる。
これまでにも、役者さんや作家さんとして拝見しており、その魅力は自分の中ではかなり高いし、一般的にも定評があるみたいだ。
今回はトークショー。
丸山交通公園ワールドが炸裂。見事な構成で、その奇才っぷりに、たっぷりと笑わせてもらう。
毎回、拝見するたびに、この方、本当に凄いと思いますけどね。落語家を目指されているようですが、そちらはもちろん、これまでの演劇ジャンルも含めて、様々な舞台でご活躍の姿を見続けたいものです。
濃密で面白い50分でした。
テーマは露出狂。
ペットの性風俗と迷いながらも、こちらを選択したらしい。
丸山交通公園さん。
落語家になろうと決意して、私も大好きな月面クロワッサンという劇団を退団し、寄席を回り、弟子入りしたい師匠を見つけるものの、厳しく弟子入りを断られる。心折れて、実家で引きこもった暇な日々を過ごす。
その中で見たある報道番組。
70歳を越えた爺さん。ど田舎の畑に立ち、チャックを開けて、自分のあそこを見せる。レポーターは興奮気味に、その露出の瞬間を捕らえていた。逃げる爺さんを追うレポーター。捕まえて、問い詰めると痒かったという全く正当性を持たない言い訳を放つ。
地元の小学生に事件をインタビュー。優等生っぽい子が、始めは立っていただけだったが、そのうち、あそこを出し始め、危険だと思っていたという見た目にあった真面目なコメント。その後ろでは、クラスのお調子者が笑いをこらえている。
露出狂とは何なのだろうか。犯罪でありながらも、この軽い扱い。
時間はいくらでもある。露出狂に関して、調べ上げ、妄想を膨らませ、ひたすら考え過ぎなくらいに考えてきた。こんなことは、実家で自分の将来を案じる両親に話せるわけもない。
時は終戦記念日。この夏、話題が集中する早稲田実業の清宮選手とほぼ同じ180cmを越す大柄な体格の丸山交通公園さんが、片や照り付ける太陽の下、人ひしめく甲子園で快音を鳴り響かせる中、こちらは歴史ある元・立誠小学校講堂の壇上で 緞帳で外界と隔離して、わずか数名の聴衆の下、怪しげに、負けじと豪快なボリュームで語り始める。
露出狂の言葉の定義、そして、法的にはどう捉えられているのかが説明される。参考文献は広辞苑と六法全書。
続いて、新聞記事による、過去の露出狂の事例を解析。
動機は様々だが、どれも同調できるものではない。
相手の承諾を得ていたとか、女性が憎いだとか、何か声がしたとか。
せいぜい、ムシャクシャしていたというのが、ギリギリ納得できるくらいか。
相手が見たいと言ってきた。そんな動機もあるらしい。どんなシュチュエーションが考えられるだろうか。想定されるパターンを得意の落語で表現する。
ある男が同級生の女子高生と喫茶店で話している。
女子高生は言う。おチンチンを見たい。断ると泣き出す。涙には弱い。トイレにでも連れ込み、少しだけ見せようとするがそうではないらしい。
外でしかも登校中に見せて欲しいのだとか。
そうすれば、露出狂にあったというトラウマを持つ女子高生ということになる。転校したいけど、親が許さない。でも、そんな状況なら、きっと親も仕方ないと認めてくれるはず。
男は、あまり気が乗らないが、あなたなら優しいから頼まれてくれると思ったという甘い言葉を聞いたら、承諾するしかない。一応、女子高生が、自分とは全く違った犯人像を警察に証言して、捕まる心配が無いことを確認して、決行する。
計画は上手くいった。しかし、翌日、警察が男の家にやって来て連行される。
頼まれた女子高生だけでなく、他の子にも見られていたのは誤算だった。
女子高生が見たいと言ったから。でも、この証言をしたら、全てがバレてしまう。
女子高生が見たいと思っているんじゃないかと思った。そう誤魔化す。これでいい。こんな自分が一人の女子高生を救えたのだから。
そんな男気を知ってか知らずか、警察は温情措置で説諭のみで釈放。
ところが、翌日、この事件は学校で公になっている。同級生からは露出狂と笑い者だ。ふと見ると、転校しているはずの女子高生は椅子に座って机に伏して泣いている。
騙されたことを初めて理解した。
これで、女子高生は被害者という地位を確立し、クラスで、学校で優位な立場を維持することだろう。自分は、学校で話題になっているということは、近所にも知れ渡り、お先真っ暗な人生が待っている。
こうして、露出を繰り返すようになった男。
女性への憎しみを背負い、導かれるように露出狂となった一人の人間の姿が描かれる。
もちろん、これは考え過ぎの妄想。
でも、改めて露出ということを考えてみると、これは悪いことなのだろうか。
そもそも動物は裸だ。いいとこの犬ぐらいしか服は着ない。魚などは、服を着ている姿を見た人はいまだかつていないはず。花だってそうだ。おしべやめしべ、性器が剥き出し。その匂いを嗅いだりする。
服を着ている方が異常にすら思われる。
初めて服を着たのは、恐らく利便性からだったと推測される。
裸で生活していた人間が、捕えた獲物の肉を喰らい、残った毛皮をちょっと羽織ってみたら、これ、いいじゃんみたいになったのではないか。
そのうち、毛皮の服を着る者が現れる。
でも、すぐに全ての人に行き渡りはしない。じわじわと拡がっていく。
別に裸でいいけどと言って、そのままな人もいたはず。
やがて、毛皮は流通し、着ることが普通、常識となる。
裸のマイノリティーは弾圧の対象に。非常識、劣性の象徴となってしまった。
常識、ルールを破ることは禁断であるが、それだけに大きな魅力となる。古典文学、オイディプスなどにも通じる人の捨てられぬ欲望だ。
こうして、露出狂が現れることとなる。
つまりは、露出を忌み嫌うことは、理性と知性が成熟した産物なのだろう。
だったら、露出狂を見た時、異常だと思う自分を見詰めて、理性、知性が備わった優れた人であるという自己肯定をすればいい。何にも感じない人は、その見たことだけで面白いことなのだから、エピソードトークのネタとすればいい。
そうすれば、露出狂は受け入れられる。
露出狂を異常な象徴として、単に拒絶するのではなく、寛容に許容する風潮が、今の世にあってもいいように思われる。
といったような、露出狂を題材に、Purpose、Introduction、Material and Method、Result、Disucussion、Conclusionと論文のような構成のトークショー。
卒論にでもそのまましてしまえるようなクオリティー。
もちろん、本当に提出したら教授には、書き直しを命じられるだろうが。そんな寛容は残念ながら、今の世には存在しない。だから、生きにくいのだろう。
このトークショー自体が露出狂の様相を見せているようだ。
こんな異常な妄想にふけってしまっていることを、人の目の前で喋ることで曝け出す。自分は、こんなんじゃないから正常だわと安心、自己肯定。同時に、面白ネタとして、人に聞かせる話のネタにしようと考える。拒絶は無いだろう。面白いこと考えはるんだなあと許容。それはきっと、人の心を傷つけるような犯罪としての露出狂ではないから。自分を曝け出して、そこに人を楽しませる要素を見つけ出すことが出来るエンターテイメントとして確立できているから。
単に面白いことを喋るのではなく、自分自身の頭の中、心の中を露出して、そこに面白味を感じ取らせるという新手の魅力的なショーを拝見できたように思う。
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