闘争 判断【モンゴルズシアターカンパニー】150703
2015年07月03日 芸術創造館 (60分、55分 休憩10分)
ヒトラーとフロイトが出会っていたらという設定で描かれる二つの作品。
両作品とも、こんな仮説を基に、今と違った世界を導き出すといった話では無い。
二人の心を見詰めることにより、独裁者と精神科医という異なる姿の人の中に見い出せる人の本質。そこから、様々な人と触れ合って生きていくこと、そして社会を創り上げることの在り方を導き出す話だったように感じます。
ぶつかりあう人たちの心理から見つけ出す人の真理。公演名からは、そんな感じのイメージでしょうか。
<以下、ネタバレしますので、公演終了まで白字にします。公演は本日、日曜日まで>
第一部 「遊んで、お父さん」
オーストリアの小さな町、リンツ。
この町で、ヒトラー家を含め、町の人たちの健康を守るべく医者として活躍するブロッホ。
ブロッホはユダヤ人。世の風潮で、ユダヤ迫害は益々酷くなっているが、小さな町で医者がいないこともあり、町の人みんながブロッホにかかっている。
ブロッホも、ユダヤ、反ユダヤと分け隔てなく、患者の治療に従事する。恐らくは、町の人も、医者がいないから仕方なくということはあるにしても、ブロッホの医療に対する真摯な姿勢には信頼を寄せている模様。
そんなブロッホの下に、ヒトラー家のクララという女性が相談にやって来る。6歳になった息子、アドルフのことで。
アドルフは病弱で、ブロッホも何度も命を救うような治療をしてきた。内に籠っているのか、意味の分からない数字などの独り言をつぶやき、悪夢でも見ているのか、毎日のようにうなされて、朝は汗でびっしょり。
ヒトラー家の事情にも詳しいブロッホは、アドルフは精神的な疾患を抱えていると考えて、ウィーンの精神科医、フロイトの下へと連れて行く。
ヒトラー家は決して裕福ではない。アドルフの前の3人の子供をジフテリアで亡くしたクララへの同情もあったのか、治療費はブロッホが内緒でフロイトに渡す。
アドルフは、フロイトにとって非常に興味深い患者であった。
アドルフと遊ぶことで、治療を施そうと考えたフロイトは、彼の言うことに従って、思いついた様々な遊びに従する。
アドルフは戦争の司令官。父親の墓を作り、それを戦車で破壊する。ユダヤ人を劣等人種だとののしり、一室に集めて虐殺する。ユダヤ人であるフロイトはいつも殺され役。
フロイトはアドルフと友達のように接する。
しかし、そんな時間は長く続かない。
アドルフの父、アロイスがフロイトの下にやって来て、フロイトをユダヤだと酷く罵り、そんなユダヤの言うことを聞くクララを激しく責める。
アロイスは、もう引退したが、国家公務員の上級事務官。引退後も、毎日着るその制服の金のボタンが誇りである。貧しい生まれだったが、必死に頑張り、今の地位を勝ち取った。
クララとは3回目の再婚。召使いとして雇っていた女性。だから、夫婦関係があっても、未だ自分はクララの主人だと考えている。そのことをクララも否定せず、受け入れている。
アロイスの母は、ある屋敷の召使いだった。父親は誰か分からない。しかし、その屋敷の主人が経済的な援助をずっと続けていたことから推測は出来る。その主人はユダヤ人だった。アロイスは、そのことに苦しみ、40歳になって、戸籍上だけの父を得て安堵している。
フロイトは、大嫌いなはずの父と同じ反ユダヤ思想をアドルフが持つことを不思議に感じていた。
でも、そんな父の生い立ちをブロッホから聞いたことで、アドルフが非常に賢い子であると理解する。アドルフが父と同じようにユダヤを迫害することで、同時に父への反逆を示し、苦しめることに繋がっていたわけだ。
アロイスは拳の力で治療を中止させようとしてくるが、無償で構わず、友達として遊びに来るだけでいいとクララに治療継続を提案するが、それを拒絶される。
大事なのはアドルフの意志だと反論するフロイトに、クララは、アドルフがフロイトをどう思っているのかを語る。アドルフは演説かのように声高らかに、クララにフロイトのことを家で語っていた。
フロイトは、自惚れの強い、自分勝手な男。父の墓を壊す。それはフロイト自身がしたかった行動。自分では出来ないから、指令でさせられるような形にしている。ユダヤだから、従わないといけないと、被害者意識を持つ。それを逃げ場にして、自分の思い通りにならないことを嘆くだけ。
その日から、フロイトはアドルフと会うことはなかった。アドルフは何度かフロイトの下を訪ねたようだが、フロイトの方が全て拒絶したらしい。
時が経ち、アドルフは、あのアドルフ・ヒトラーとなる。フロイトはイギリスに亡命した。
フロイトは自分の無力さを嘆く。あの時、自分のことを見破ったアドルフをただ褒めてあげればよかったのかもしれないと・・・
当日チラシの中で、この作品の作家、くるみざわしんさん(光の領地)が、従順をひたすら求める闇教育の負の連鎖に関して言及している。人には支配欲と同時に被支配欲もあって、そちらの方が楽だから、安易に流れてしまう傾向があることを昔、耳にしたことがある。
被支配されていた人が、従順それこそが全てぐらいの感覚になってしまい、他の人にも被支配されることを求める。その時、その人に取る行動は、その人を支配するものであり、結局、支配する者と被支配される者だけが、曖昧な境界で二分化されているだけのおかしな社会が出来るような気はする。
劇中にアドルフは登場しない。フロイトの部屋で、遊んでいることだけで、彼の姿を想像させる。その姿は、子供の遊びという設定であるが、まさに、私が知るアドルフ・ヒトラーの姿であり、未来を見せていることに繋がる。
あのフロイトの部屋で、この時は妄想、虚構だった出来事が、いつか現実化してしまう。それをどうにかしようというのが、この作品なのだろうが、結局どうにもならなかったという結末を迎えている。それぐらい、アロイス、その前から引き継がれていた従順を強いる子育ての連鎖を断ち切ることの難しさを示しているのかもしれない。だから、初めからしては絶対いけないことなのだろう。悲しいかな、始まった連鎖反応を制御することは極めて難しく、元を潰すしかない。これはある意味、当たり前のことで、世のほとんどの化学反応や生物のカスケード反応も同じ。薬だって、その源を狙ったものが開発されようとしているのだから。
ブロッホはフロイトに尊敬の念を抱いている。クララには同情、憐れみが強いのだろうが、誰であっても幸せな時間を過ごさせてあげたいという気持ちからであることは間違いない。
アロイスも、別に召使の一人、首を切って放り出すことも出来ただろうに、クララと結婚している。クララだって逃げ出していない。それは、どこかに愛が、二人の場合は拠り所みたいなものかもしれないが、あったように思える。アドルフには、自分と同じような生き方をして欲しいと願う。異常には見えても、きっと、これが彼にとっては全てであり、歪んでいるとはいえ、最高の愛情表現だったのかもしれない。
フロイトは、患者としての興味はあるにしても、アドルフに惹かれ、友人となることを望む。
見ていると、愛やら友情やらだって、形を変えてたくさん散在している。むしろ、憎しみの方が見えてこない。ユダヤを憎むという漠然とした形でしか。
どうして、それがこんなにまで悲惨な道へと、好き勝手に誘導されてしまうのか。
自分の中に潜む様々な不安を打ち消すために、人は行動を起こす。
自分を見詰め、その不安は問題では無いと正当化するために、至上主義を貫く。
遊びが無い完璧主義は疲れる。
心の拠り所を求める。
その拠り所を、人では無く、物、金、地位、権力などに委ねるからおかしくなるのではないか。
この作品の登場人物も、心を寄せるべき、愛するべき人がすぐ傍にいて、自分自身もそうされるべき存在であるのにも関わらず、違うものに身も心も委ね、逆にそれを非難されぬように、人を抑え込もうとしてしまっているように映る。
だから、ラストのフロイトの悔いの言葉は正しく感じる。
彼がアドルフを認め、それにより、フロイト自身もアドルフから認められることで、新しい連鎖反応が二人から始まり、周囲へと拡がったかもしれない。
第二部 「エディプスの鏡」
オーストリアの都、ウィーン。
両親を亡くし、独りきりになったアドルフ・ヒトラーは、故郷リンツを後にして、画家を目指してこの地にたどり着く。
友人ではないらしい、アドルフ曰く、自分一人では故郷を離れることもできない優柔不断な音楽家を目指す男の背中を押して、今は二人で共同生活を送っている。
部屋では集中できないようだ。大学生の男と生活時間を合わすのも難しいのだろう。だって、アドルフは、大学には合格できず、そのことを誰にも言えず、偽っているのだから。
静かな夜、アドルフはベンチに座って、宮殿のスケッチをする。
そこに話しかけてくる男が。このウィーンで精神科医をするジグムント・フロイトだ。
フロイトはアドルフに興味を抱く。
そして、肖像画を依頼することで、定期的に会うようになる。
スキッとしない毎日に嫌気がさしていると言うアドルフに、フロイトは催眠療法を試みる。
現れるスフィンクス。
アドルフはエディプスになっている。
朝は4本、昼間は2本、夜は3本の生き物。答えは人間。頭の中では、化け物を想像する。そう、人間は得体の知れない化け物だ。
鏡を愛する人。どうしたら逃れられるのか。答えは分からない。鏡を叩き割ればいいのか。
やがて、アドルフはフロイトがユダヤ人であることを知る。
ユダヤは劣等人種。全ての人間を自分の基準に照らして、合わないものは排除する。世の中は、どうしてこうも腐っているのか。無条件に自分を認めて従えばいい。父に抑えつけられ、支配されてきたアドルフは、万人もそうあるべきであると考える。
抽象画を否定し、彼にとってのありのままを写実することを肯定する。
そういう世の中でないなら、自分の世の中、理想郷を創り上げる。
フロイトは、彼の理想と現実が区別できなくなった完璧主義を憂う。
鏡を愛する人と同じ。問う人と問われる人が同一。人は狂う。
答えは盲目になること。目を瞑ること。
でも、アドルフにその答えを導き出すことは出来なかった。
時が経ち、アドルフは、やはり、あのアドルフ・ヒトラーとなる。フロイトはイギリスに亡命した。
フロイトは自分の無力さを嘆く。アドルフを無条件で愛し、認めてくれる人は母しかいなかった。あの時、そんな母を失ったアドルフをただ、認めてあげればよかったと・・・
アドルフの至上主義、完璧主義が、現実を歪ませ、彼の理想を現実とすべく、あの戦争が始まったというような捉え方だろうか。
彼はどんな絵を描いていたのだろうか。写実にこだわりを見せていたようだが、それは、彼が頭に描く姿を写実していただけで、本当の姿は描けていなかったのかもしれない。
フロイトの肖像画を描き、その完成品に自分が描きたいものでは無いと錯乱するが、それこそが、彼がフロイトと出会い、一緒の時間を過ごす中で感じた気持ちを込めながらも、フロイトの在りのままが描かれたものだったように思う。
このまま、絵を描き続け、世の本当の姿をきちんと描けるようになって、自分の理想と明確な区別ができるようになっていれば、変わっていたのだろうか。
当日チラシの中で、この作品の演出家、空ノ驛舎さん(空の驛舎)が、人の抱える普遍的なものについて言及している。
私が、観ている途中に思い出したのは、ここ数年で再演がなされているくじら企画の大竹野正典さんの作品。実際に起こった事件をモチーフに、異常な犯罪者の姿を描いた作品である。観終えていつも思うのは、自分の中にも潜む、異常性や狂気である。事件をただマスコミが報道するニュースはもちろん、特集を組むワイドショーですら、絶対に思わない感覚である。あれは、ただ犯罪の否定、犯人の否定、被害者への同情だけが煽られる。行き着くところは、犯人は異常だ、間違い。自分の正常、正しさを何となく確認して安堵を得るようなもの。
この作品も似ているところがあるような気がする。
まず、感じるのはヒトラーとフロイトは非常に似ているということ。
確かに、ヒトラーの生い立ちからは、フロイトの提唱したエディプスコンプレックスが見えてくる。そんな説を唱えるぐらいだから、フロイトにだって同じような感覚はどこかにあったのではないか。第一部で少しそんなことがほのめかされている。
そして、至上主義や完璧主義は、ヒトラーは露出しているが、実はフロイトにも感じられる。こうあるべきだという、自分の考える理想的な姿を追求するという信念、それを他者にも理解させようとする行動は、精神科医だからであろうが、少し強めに見えるような気がする。
理想を現実化するという考えは、両者とも持ち合わせている。
鏡の中の自分に問いかけ、同時に問われるという狂わされる状況の中で、フロイトは目を瞑る。恐らく、妥協するとか、いい加減にするとかいった、ちょっとしたあそび幅を持てたのだろう。でも、ヒトラーは、それと真摯に向き合ってしまう。やがて、目を瞑ることすら、盲目こそ悪ぐらいの感覚になって、鏡を割り、自分の理想だけしか映らない鏡を作ろうとしてしまったような感じではないか。
そんなヒトラーとフロイト。
全ての人がそうではないだろうが、私の中ではヒトラーは愚かな行動を犯した犯罪者。多くの人を殺戮し、自己の欲望に任せて、戦争を引き起こした誤りの人。フロイトは、まあ、けっこう強引なところがあったような話は聞くが、精神医学を発展させた祖であり、世にとって必要だった正しき人。
突き詰めて、見詰めてみたら、似ているなあと思うのに、こうも違う行動を起こし、こうも評価が異なる。
二人のような偉人と自分を一緒に考えるのもおこがましい話だとは思うが、自分にだってどこか共通点はあるような気がする。でも、私は、少なくとも今は、毎日を一応仕事をして、こうして普通に観劇を楽しむおっさんだ。
みんな人間であることは間違いない。
きっと、人である以上、こうした何かは絶対に抱えているものであり、それを否定することは出来ないのだと思う。
人は化け物であり、何か得体の知れない恐ろしいものを抱えている。それが、環境なのか、性格なのか、何なのかは分からないが、出てきてしまうと悲劇をもたらす。
だったら、その化け物のような恐ろしきものを抑え込めばいいのか。
それは違うことを、第一部も含めて、この作品は物語っている。
抑え込むことで、化け物は育ち、やがて、その人の心を全てのっとったかのように現れる。
じゃあ、どうするのかということは、両作品とも答えを明確にはしていないので、難しいが、きっと認める、愛するという形での心の解放なのかなと思う。
化け物が潜んでいる。でも、それは人間だから当たり前のこと。大切なのは、そのことに気付き、それに縛られず、囚われることなく、生きること。
そして、心の拠り所を、ものに求めず、人に求めること。人に触れることで、きっと、自分の中の化け物にただ怯えるのではなく、受け入れて、その恐ろしさを理解して物事を捉えられるようになる。
そんなことが、人と理解し合うことの答えの一つとして浮かび上がった。
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