ふがいないや【劇団冷凍うさぎ】150629
2015年06月29日 アトリエ S-pace (120分)
食人一家が住む町で起こった、連続殺人事件の真相を追うみたいな、ドキュメンタリータッチの作品。
もう、うんざりだ。というぐらいに、人が連鎖的に死に続けます。そして、そこには多くの人の歪んだ感情が渦巻きます。
その中から、どうして死ぬのか、死なないといけないのか。だったら、生きるって何なのかということを考えながら、観ていると、ほんの少し、でもきっとそれが全てであるような、大切なものが見えてくるようです。
それは、多分、憎しみ、妬み、無関心と負の感情が渦巻く中でも、存在している愛だと思います。
台本を買っておけば良かったか。
どうも、芝居などしたことない者にとっては、台本は非常に読みづらく、買ってもまず読まないので。
あれば、少しは人物関係や時系列を組み立てるのに役立っただろうに。
少し、意識を飛ばしたところもあり、だいたいを記憶を頼りに思い出してみる。
とある町で起こったある事件。
それに関わったその町の人たちが、自分の知っていることをある男に語る。進行役ではあるが、ストーリーテラーならぬ、リスナーみたいな立場。
単なる興味本位なのか。町の人たちの言葉を聞き、それに同調するわけでも無く、批判するわけでも無く、少なくとも感情を露出はしないで、ただ、事実から真相を突き止めようとする。別に真相に行き着かなくてもいいぐらいの感じ。ただ、どうして、こんなことになったのかが、自分の中で整理されればいい。町の人がほぼ死ぬという状況にまで至った経緯を。
舞台は前面に大きな木枠が置かれる。感覚的にはテレビドラマを見るような感じだろうか。時に登場人物に同情し、怒り、幻滅し、自分のあらゆる感情を湧き起こして、それを楽しむ。観る者個々の、自己本位の行動と言えばそうだろう。そんな男は、同時に第三者の客でもあるようだ。
自分勝手な男や客が、こんな大変な事件に巻き込まれた人たちを興味本位で見る。でも、そのことに後ろめたさを感じたり、恥じることはない。だって、そんな人たちも、同じように自分のことしか考えずに生きてる人たちばかりなのだから。
アルバート・ヒューズが、店で泥酔していたニコライ・ケスバーグを絞殺するところから、話は負の連鎖反応のように展開していく。
ヒューズが、自分の妻、子供がケスバーグ家に殺された、正確には殺されて食べられたと思っているからだ。
ヒューズはとても家族を愛していたみたいだ。愛して、愛して、それが暴力という形で露出するぐらいに。もう、家族はいない。失った悲しみはもちろんあるのだろうが、愛し、殴る存在がいなくなったことで、自分自身の存在が揺らいだことへの焦燥感の方が強く感じられる。同時に、自分こそが、妻や娘を殺し、食べるべき者だったという、歪んだ犯人への憎しみも感じられる狂気が潜む。
ケスバーグ家は、殺されたニコライ、息子のフレッド、妻のアンナ、二人の娘、リジーとミーシャがいる。フレッドは、人徳もあり、この町でビジネスを成功させ、皆から名士と謳われている。ただ、食人という血が流れているらしい。
フレッドは、その抑えられぬ血を呪いながらも受け入れて、近隣の者には手を出さないということで自律する。
殺害現場の店には、世を舐めきったかのような保安官と、その部下にあたる熱血漢の男がいた。
保安官はフレッドと幼馴染で仲がいい。利権も絡んでいるのか、この食人の事件は、自然消滅してしまうことを望んでいるみたい。この絞殺もうやむやにしたい様子。
部下は、正義感が強いみたいで、事件の真相を追求しようと必死。町の人たちが幸せに過ごせるように、治安を守る。といった殊勝な考えでは無さそう。家族を失った人に同情し、殺した犯人を憎み、そんな正義を貫く自分を築き上げて、満足するためのように見える。
この町は、こんな風に、結局、行き着くところ、自分のことしか考えていない人たちばかりである。この町では無いのかもしれない。きっと、どんな町でも。
ただ、これは序の口。これから、さらにそんな人たちが登場し、事件に関する話を男に聞かせていく。
アルバートは、このケスバーグ家を町から追い出すべく、自警団のリーダーになっている。もう、これ以上の悲劇は繰り返さないために。といった、これまた殊勝な考えではない。全ては、ケスバーク家への憎しみ。
そんなアルバートに同調し、行動を共にする中で、恋愛関係にまで発展してしまった女性、ジャネット・トッド。彼女の娘姉妹の妹、エリーが行方不明になっており、ケスバーク家に連れて行かれたと噂されている。自分に降りかかった悲劇に苦しむというかは、こんな悲劇にあっているのだから、皆が自分を気遣い、自分は何をしたっていいはずだぐらいの感じ。恐らく、この不倫も寂しさを理由に彼女の中では正当化されている。
彼女の夫、ゲイリー。娘が行方不明にも関わらず、さして焦る様子も無く、平気でいる。自分は自分。娘であっても他人は他人ぐらいの感覚なのだろうか。
そして、ゲイリーは、そんな娘のことを考えている場合では無い。フレッドの妻のアンナといい関係だから。と言っても、自分の気持ちを深く見詰めることが出来ないのだろう。要は、傷つき傷つけたくないから、あらゆる降りかかる事象に冷静を装い、感情を生み出さないようにしているような逃げのスタンスみたい。だから、好きの気持ちも抑え気味。アンナの方がぞっこんで、それを受け入れているだけの関係のように映る。
姉、ベスは家を出て、どこかで暮らしている。自分のことしか考えない親に嫌気がさしたのか。きっと窮屈だったのだろう。そんな気持ちは、恐らく、エリーも持ち合わせているはず。積極的な性格のベスは、自分の拡がる世界を手に入れようと家を出た。消極的、もしくは、そうなるように追い込まれたエリーは、自分などこの世に不要というぐらいにまで、自己否定をするようになっているみたい。光や慈悲の意味を持つ自分の名前と、今の自分自身の違いが、また自分への否定を増長させている。
ケスバーク家では、エリーが連れて来られている。
寡黙に働き、この家を守る謎の使用人が秘密裏に動いたみたいだ。
両親からの、ミーシャへの誕生日プレゼントらしい。
ミーシャは幼き頃から、冷たく影があり、カエルを平気で潰して殺すような子だった。亡くなったニコライ爺さん、父、フレッドは、そんなミーシャを、濃い血の繋がりを感じたのか、溺愛していた。
その反面、姉のリジーは、親からの愛情をあまり感じることが出来なくなっていた。優秀な成績を収め、もちろん親から褒められ、可愛がられるのだが、この家族の中では、恐らく流れているべき食人という狂気の血が薄いのか、その愛情にも濃淡を比較して感じるようになってしまったようだ。そんな生い立ちのためか、今は、祖父に似た役所の職員という安定し、生真面目な男と付き合っている。彼と結婚して、この町を出て行く。血を断ち切る覚悟だろうか。それでも、やはり、本当は愛されたかったのか祖父の面影を残す男に惹かれている。
ミーシャは、エリーは自分の友達だと激怒し、家を出て行く。
トッド家に戻るが、ゲイリーは、こともあろうかミーシャに欲情を示す。
姉と同じく、自分もこの家を出る。エリーは、自分の存在を唯一認めてくれるミーシャとこの町を出て、どこまでも行く決意をする。
といったように、覚えている限りでは、こんな人物像と関係性の事実が、個々の登場人物から語られていたと思います。
で、ここから、どんどん死にます。
結局、ミーシャ以外は死ぬのですが、このあたりがよく覚えていません。もう面白いぐらいに、死が連鎖して、もう、好きに死ねばいいわといった諦めの感が出てしまうのです。
ヒューズは、フレッドと巧くやりたい保安官にとっては邪魔なので殺される。いや、ゲイリーが殺すんだったかな。そんな汚い保安官を部下は殺す。
娘に手を出されたアンナは愛する獄中のゲイリーに死を迫る。アンナは、自分の不幸の全ての源だとジャネットに殺される。ジャネットは、保安官に殺される。
ベスはせっかくの新境地で事故で死ぬ。
フレッドは、ヒューズ家、エリーの食人の真相を語って、世から姿を消す。
リジーと職員は、将来像の違いから揉めて死ぬ。
エリーは、食人鬼を抹殺するという正義感に憑りつかれた部下がミーシャを殺そうとするのをかばって死ぬ。ただ、とどめを刺したのはエリーだけど。
部下は何で死んだんだったかな。
残されたミーシャ。お迎えに来る使用人に、もう、勝手にするから好きにしていいよと言葉を残して去る。
事件のあらましを知った男と、自由を得て大喜びしている使用人の姿で締められる。
登場人物たちは、自分のしたいことを好き放題にして、愛し、憎しみ、それがどう絡まったのか、次々と死を連鎖させて。
複雑に交錯する心情を一つ一つ理解していくのは非常に難しいですね。
結局、感じるのは生きることは許されないことで、死ぬことは許されることみたいな感じでしょうか。
本能的に許されないことだと思っているから、生きる中で、それを正当化しよう必死になる者。特に身近に死を見てしまうと、何であなたは死なないのかという強迫観念でも襲ってくるのか、自分はこうだから生きなくてはいけない、生かされないといけない存在なんだと、必死に主張する姿が浮き上がります。
そして、その許されないことを受け入れてしまい、許されようと死へと目が向く者。そんな者たちは、自分はこの人にとって愛されている存在だから、生きることが許されると思うことで、生を認識できるようです。
エリーは、自分の名前が、光や慈悲を表し、世にとって必要な存在の象徴だから生を与えられたというようには思うことが出来ません。部下が正義感、正論に憑りつかれた鬼となって語る、誰にでも生きる権利があり、希望を持って生きるべき、誰もそれを脅かすことは出来ないみたいな言葉も、死から目をそらすきっかけにはならないようです。
たった一人のミーシャに友達と言われた。ただ、それだけで、自分の生を認識出来たように、人は想われている存在であることに気付き、同時に自分もその人のことを想っているんだなと分かることが、生への輝きを取り戻す始まりを生み出すのでしょう。要はきっと愛ってやつですね。
舞台には、多くの死がまき散らされます。
食人、殺人、事故、一応、舌噛み切ったので自殺。
結局は、人が死んだということで、同じなのですが、そこにある意味合いが異なるように思います。
事故は仕方ないですね。生への輝きを取り戻し、拡がる未来を夢見ても、死ぬ時は死ぬ。現実の厳しさでしょうか。だから、精一杯生きるべきと考えるのは、正論に憑りつかれた部下のようになるから、何か嫌ですが、少なくとも、もう生を取り上げますと言われるその時までは、生を少しでも楽しめばいいんじゃないのかという考えは抱きます。
自殺。ここで言う自殺は、舌を噛み切るゲイリーの最期であり、少し通常の自殺とは異なります。上記した生きることを正当化しようと必死な者が、万策尽きたような感じでしょうか。というか、必死じゃないんですね。だから、生きることを許されようと筋道立てることも出来ず、行き詰ってします。それが同時に生きることに詰まったということなのかと感じます。
殺人は、その正当化の理由に、自分は傷つけられたから、自分の思い通りに事が進まないから、自分と主義主張が異なるから、・・・といったことを挙げ、その人への憎しみを持って生きた結果の末に起こっているようです。恨みや憎しみのような負の感情を消し去るには、その人の存在を消す以外は無く、当然のことなのかもしれません。でも、憎しみを持って生きる者は、殺人を犯した後、その生への正当化の理由を一瞬で失います。だから、死ぬことになる。この作品の死の連鎖反応は、ここにあるように思います。
食人。この食は、きっと贖罪の意味合いじゃないでしょうか。ケスバーク家のフレッドは、食人の対象として、ヒューズ家の母子、トッド家のエリーを選んだ訳ですが、その人たちは心中や自殺しかねない状況にあったことが描かれています。自分が生きることは許されないと受け入れてしまい、死んで許されたいと思うまで追い詰めれていた人たち。そんな人たちに贖罪を与える。フレッドは加害者でありますが、神のようにも見え、その人たちを食して消化することで、どうしようも無かったその人の人生を受け止め、昇華させるといった、単なる死では無いように感じます。
フレッドは食するということで人を救っているようですが、その娘、ミーシャは、愛するということで、死んではしまいましたが、エリーを救っています。エリーが光と慈悲を表すなら、フレッドは慈悲の神であり、ミーシャは光の神のように映ります。エリーは、短き生の時間でしたが、ミーシャに愛されたことで、生への喜びを持って死へと向かったはずです。だから、きっとミーシャも、エリーの生は十分だったと考えてとどめを刺したのでしょう。
生が許されないことなら、その許される死までの間の時を、人はもっと自分勝手でもいい、自由に過ごして欲しい。ミーシャは、すぐ傍にいる使用人にその自由を与え、この町から世へと旅立ったようです。
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