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2015年4月18日 (土)

追伸【空の驛舎】150418

2015年04月18日 アイホール (110分)

2年前に拝見した作品。
http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/120318-e79c.html

ブログを読み返して思い出しましたが、そうそう、この時大変だったんだ。
夜中に母親が緊急入院して。
それでも、この作品はやはり観たくて、病院から次の日だったかは忘れましたが駆け付けたのでした。
そんな母親も3か月前に亡くなりました。
1/18に亡くなったので、ちょうど月命日ですね。
何かちょうど想いを馳せるのにいい作品でした。
一言で言えば、生死を描いた作品でしょう。

生死の境界を彷徨う人たちを描いた三作品。
死と向き合い、受け止めることで見える自分の生。大切な人を亡くした者は、その死を受け止めて決別しないと前へ進めません。同時に死者も辛い想いで、生と決別しているのかもしれません。
生きている間は触れ合い、温かみを感じ合える。でも、生死で分かたれた者たちにはもうそれは無理です。
伝えたかったこと、してあげたかったこと・・・
そんな想いを追伸として残し、悲しみを償却して、生を全うする人の姿を、日常の一部から真摯に描いているような作品でした。

<以下、ネタバレしますが、再演なので白字にはしていませんのでご注意願います。公演は日曜日まで>

・「校庭にて」
一話目は校庭が舞台。
高校時代のバスケ部の人たちが集まる。
交通事故で亡くなったマネージャーの葬儀を終えて。
一人の男は、盲聾者の職業斡旋の仕事をしている。部の合宿費を盗んだことからの罪の意識なのか、そんな仕事に転職したらしい。矛盾する法規制や本当に盲聾者のためになっているのかという悩みを抱えながらも、日々、支援に取り組む。彼は亡くなったマネージャーに伝えたいことがあったみたいだ。本当に好きだったと。
その男の先輩は、東京で暮らしている。すっかり東京に染まってしまったのか、大阪特有のなんでやねんというツッコミもキレが無くなっている。今、同席している同級生のマネージャーとは、かつて恋愛関係にあったような感じ。ただ、亡くなったマネージャーとも付き合いがあったことがほのめかされる。
先輩マネージャーは、東京でしばらく暮らすものの、ここに戻ってきている。病気の母のために。なかなか言うことを聞かない母らしく、自分の人生の時間を彼女に使うしか無い状況に追い込まれたみたい。
後輩は、合宿費を盗んだことを告白する。そして、先輩マネージャーに、彼女には分かるはずもない、盲聾者のための触手話で亡くなったマネージャーへの自分の想いを告げて、この場を立ち去る。
残された二人。
亡くなったマネージャーといい仲だった先輩。そのことをはっきりと言葉にせず、自分の今の状況に触れてくることに苛立ちを感じ、ずるいと声を上げるマネージャー。

後輩は全てを曝け出して、亡くなったマネージャーの死を受け入れられたのだろうか。死という別れをもって始めて、自分の彼女への想いが整理され、伝えられるようになった。でも、その時に彼女はいない。これまでの彼女と共有した時間の追伸としてしか、その本当の想いが語られないことが辛い。
でも、よくよく考えれば、これは大概の死による別れとして普通のことかもしれない。
私事だが、この日は母が亡くなってちょうど3ヶ月目。まだ、やっぱり悲しく、父が亡くなった時はそれほどでも無かったが、さすがに母の場合は別みたいで、今でもたまに夢に出てきて、朝、泣いているなんてことが恥ずかしながらまだある。
色々と伝えたいことはたくさんある。でも、それを追伸としてしたためたところで、届くはずもない。これが死による別れの現実だ。
それでも、きっとそんな追伸を私たちは書かなくてはいけないのだろう。心残りを全て曝け出して、出来なかったこと、伝えられなかったことを否定するのではなく、その事実を肯定して受け止め、これからの自分の生の中で背負って生きていく。それが死を受け入れることなのかもしれない。
死なんて、誰もが好きなわけもなく、出来れば封じ込めておきたいところもある。自分さえ認めなければ、その人は死んでいないなんて考えも可能だ。でも、それでは、先に進めない。死を曖昧にしてごまかし続ける。それはその人の生すら否定することになるのかもしれないし、自分自身の生にだっていつまでも向き合えない。
それはズルいし、汚い。先輩の姿がそんな感覚と結びつかせているような気がする。
そして、マネージャーの姿は、とにかく生きる強さ。きっと、この人は今、色々と辛いはず。死んでしまいたいなんて思ってしまうこともあるのかも。でも、死んだって仕方がない。死はいつ訪れるか分からない。それは亡くなった後輩マネージャーの姿から分かるはず。もう時を止めてしまえば、何も無くなる。想うことも出来ないし、想われてもそれを感じることが出来ない。
出来なかったこと、伝えられなかったことを追伸で残すのではなく、生きている私たちは手紙の本文に、実施してどうだったかを描くことが出来るようなことを感じる。

・「児童公園にて」
二話目は公園。
ベンチにパチンコ中毒の女性とその女性に金を渡す男が座る。簡単なアンケートを記載させるだけで、2万円も渡している。
女性の夫は、労災で両腕を失って、保障された生活を送っているみたいだ。
公園の砂場にはうつ伏せになって動かない男。砂を見詰めてるのか、空いた穴から向こう側を覗き込んでいるのか。
公園の周囲を自転車に乗った女がクルクル回り、うつ伏せの男を迎えにやって来る。兄らしい。
やがて、公園にいる者たちは自分たちの状況を把握していく。

一話目も同じだが、舞台は黒い地面を白い帯でうねるような楕円で囲んでいる。
公園はこの中にある。
初演の時も内外のどちらが生死の世界になるのか分からなかった。初演の時は、外を死の世界、内を生の世界と捉えてブログを書いたが、舞台監督さんに逆だろうと教えていただいた覚えがある。
楕円枠の中の閉じた世界は時の止まった死の世界とも思えるが、同時に自転車で円環運動を繰り返す女性の姿も、また時の流れが繰り返されている死の世界のようにも見える。
ただ、今回、会話の中から考えると、恐らくは舞台監督さんに教えていただいた感覚の方が話としては捉えやすいような気がする。
サイレンの音と同時にアカエイがが暴れ出し、公園ごと飲み込んでしまったのだろうか。
うつ伏せの男は手足を怪我したのか、地面に張り付いている。もう誰とも触れ合えない。ただ、天からかつて自分が生きていた世界を覗き込んでいるように見える。
この作品は、一話目と逆転して、死者の生との決別みたいな感じだろうか。
一話目の亡くなったマネージャーと、この二話目の生き残った自転車の女性が真逆なのだが同調して見える。二人とも、各々の世界の中で普通に死んでいる、生きているといった時間を過ごしてるみたいである。
そんな人たちの生死と決別しないといけないのが、一話目は後輩、二話目はうつ伏せの男。後輩はマネージャーの死を受け止め、彼女に伝えたい本当に好きだった言葉を追伸として残し、自分の生を受け止める。うつ伏せの男は、妹の生を見て、もう自分はあなたとは触れ合うことが出来ない存在になってしまったことを追伸として残し、自分の死を受け止めるといった感じで。
両腕を無くした夫を持つ女性は、夫の方が幸せだと言う。社会保障されているから。自分のような人間には保障が無いということか。でも、そんな人にも安易にお金を渡してしまう男の正体は何者なのか。生活保護不正受給みたいなイメージをさせているのか。
一話目の盲聾者の支援や親の介護問題なども含めて、人の生死にこんな社会保障の問題は現実的に切り離せないことをぶちあけて描いているのかもしれない。
この女性は、辛い状況でも必死に自律して生きようとする一話目の先輩マネージャーと対照的な描かれ方か。生死の境界を曖昧にしたような話となっているが、そんなところから生きている者と死んでしまった者との大きな差が浮かび上がるのかもしれない。でも、そこに声を掛ける人は、共にその実情を深く見据えず、一話目の先輩は安易な言葉をかけているし、二話目の人は安易にお金を渡す。何となく社会のするさや汚さ、頼りなさを感じさせられる。それに期待せず、必死に頑張る者もいるし、食い物にしようとする者だっている。より良き、平等な社会が無ければ、そこに無駄な死が生まれたり、ただ辛いだけの生が生まれるような感じだろうか。

・「病院の近くの公園にて」
三話目も公園。病院が見えるその公園に三人が集まる。
バイク事故で九死に一生を得たミュージシャンをしている男。入院しているが、外の空気を吸いにやって来たみたい。
その見舞いに訪れた彼女。
女の友達で、葬儀会館建設反対運動をしているらしく、そのテーマソングを作ってくれと依頼にやって来た女。
入院中の男と彼女の色々なことを括弧の中に閉じ込めて全部嘘みたいにするよく分からないゲームでいちゃつく二人。
そこに友達の女がやって来る。
男は依頼にノリ気で、三人の楽しい会話が繰り広げられるが、葬儀会館が建設されようとしている山向こうの町にある遊園地の話になった時に彼女の様子が変わる。
友達の女が自分の正体を告白する。幼き頃、山の中に眠るアカエイが暴れたのか地震で観覧車の巣から落ちたツバメを助けてくれた女の子。それが今の彼女。
私はその時のツバメ。今は時の経過と共に朽ちて砂になってしまった。
その言葉で、自分の死を受け止める彼女。そして、バイク事故のことをはっきりと思いだす男。

一話目、二話目を踏まえて、生きている者が愛する者の死を受け止める、同時に亡くなった者が、時が止まった後は自分は朽ち果てていくだけであることを悟り、生と決別するみたいなまとめの話みたいな感じかな。
同時に描かれると、生死による別れが強調されて、より辛い感覚が残ります。
それでも、そんな生死の境界で彷徨うことは、生きる者も死ぬ者も許されないのでしょう。
とりあえず、括弧の中に入れておくみたいな変な遊びはいつか、終えなくてはいけない。生死は遊びでは語られないですから。
ツバメは助けてもらった時に、少女の手が温かかったと伝えます。でも、今、その女性は温かさを伝えることは出来ません。それは二話目のうつ伏せになった男と同じことなのでしょう。物理的に手足を無くしても、その温かみは人に伝わるけど、死ねば五体満足でもそれはもう無い。だから、二話目の女性は自分の夫は幸せだと言ったのかもしれません。もう、触れ合えないことを知ることは死を認めることであり、死ほどの不幸は無いでしょうから。
彼女は楕円枠を超えて舞台から消えます。ツバメと共に。
残された枠の中の男。恐らくはバイク事故の時、同乗していたのだろう彼女。どうして自分だけが、彼女を救えなかったのか。男の心残りを描く追伸の内容はあまりにも酷な気がしますが、それでも彼女の死を背負って、男は生きなくてはいけない。
正直、死が迎えに来てあげてくれた方がいいような気もします。でも、決してそうではない。
男には必ず、またそんな男の抱えるものを汲み取ってくれる、温かい手が差し伸べられると思うのです。
それはこれから生きている間に出会う人たちであり、また社会全体がそうでなくてはいけないような気がします。話の中に社会保障問題が組み込まれているのは、そんな死を受け止めて、必死に生きる人たちにきちんと温かい手を携えられる良き社会じゃないといけないことも伝えているように感じます。
大切な人が亡くなり、生き残った者。また、生の歩みを始めるようになっても、それはまだまだ辛いことでしょう。でも、決して独りでは無く、あなたには温かい手が差し伸べられます。同時にあなた自身も、その手でそんな人に触れて温かみを伝えてあげてください。だから、生きましょう。
そんなことを三作を通じて感じました。

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