ツキノウタ【満月動物園】150308
2015年03月08日 シアトリカル應典院 (105分)
今、感想を書く前に、ちょっと初演での感想記事を読み返してみましたが、まあまあよく書けているのではないでしょうかね。
今回の公演で感じたことを表すには、けっこう十分かもしれません。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/120212-5e18.html)
まあ、厄病神を疫病神と平然と書き間違えていたり、あの関西を代表する役者さん、谷屋俊輔さんが素敵だと思わなかった時期もあったようなことをクソ生意気に書いていたりするところはご容赦いただくとして。たぶん、観劇を初めて3年経って、一応、趣味として確立し始めた頃で調子のってたんでしょうね。
初演と変わらず、美しく綺麗な作品だったわけです。舞台も歌声も女優さん方も。時は確実に経っているのにも関わらず。
一人の死に直面した男の走馬灯の物語。
死ぬんだったら、きちんとしてもらわないといけないことがあるようです。
一つは、男自身が、しっかりと自分の生の時間を最期の最期まで見詰めて、いい人生だったことを受け止めること。死ぬんだから、悲しいでしょうが、これで単に悲しみに包まれてあの世へ行くことはなくなるでしょう。悲しみの中にも、生まれてきた、そして生きてきた喜び、幸せも噛み締めて旅立てるはずです。
もう一つは、残された者に対することです。死ぬことが悲しいのは自分だけでなく、残された者も抱くことです。そして、残された者は、まだ生の時を刻み続けますから、ずっと、死が迎えに来るまで、死んでいった者の悲しみに対して悔いを抱かないといけない。何か出来たのではないかと思いますから。そんなことないよ、色々と十分してもらったよ、ありがとうと伝えてあげないと。生きる者への責任は大きいでしょう。
単にいい人生だったわあと思いながら死んでもらっても困るということなのでしょう。そのいい人生を創り上げたのは、自分だけでなく、親、恋人、友達など周囲の人たちも関わったことなのですから。自分は死んでしまうけど、生きてきたことに誇りを抱く。それと同じように生き残る者たちも誇りを持って、これからを生きて欲しい。それを伝えなくてはいけない。
死ぬという悲しみに囚われないように、互いにありがとうという感謝の気持ちで一人の人生の最期を見届けようみたいなことを感じます。
生死で分かたれたとしても、残る互いの想い合いが浮き上がってくるようです。
宇宙の果てまで追いやられた母の息子への想い。すぐ傍にいたのに、母はずっと孤独を貫く選択をした。我が子を愛せない悲しみ。
孤独や悲しみは、たぶん、片方だけが持つものではなく、男自身も同じ感情をずっと抱き続けていたのでしょう。
でも、男は出会った恋人にそんな孤独や悲しみを埋めてもらえた。偶然にも、幼き頃、自分が生まれてきた喜びを感じて安らかな眠りについていた母と同じ歌を唄う女性に。
男は母にそれをしてあげられなかった。死を前にして母に抱く悔い。男はもうすぐ死ぬ。その時、母も男に対して、きっと同じことを思う。死者がするべきことは、まだ生きる者に悔いを抱かさないようにただ祈る。その祈りの気持ちを伝えることが、この走馬灯の旅だったようです。
男は、自分に生を与えてくれた母への感謝の気持ちを残します。それが、母のこれからの生の歩みの上で、悔いはあるにしても、誇りとなって前へと進むことになるのでしょう。
そして、自分の悲しみを埋めてくれた恋人。彼女には、自分の愛する想いを残します。母から注がれた愛情の塊のような赤い毛糸玉。それは時とともに様々に形を変えて、男の身に常に纏わり続けてくれていた。その男の想いはそんな赤い毛糸玉に託される。恋人、そして、生きては出会えなかった子供、孫・・・
その想いがこれからも紡がれていく未来を確認して、男はこの世を跡にする。
男は、生まれてきた時に、喜びと感謝を込めて母が唄ってくれた歌を、今度は愛する恋人に慈しみと感謝の想いを込めて唄われる歌として聞きながら、赤子のように安らかな眠りにつくような最期で話は締められているようでした。
生まれてきたことを許された。そんな言葉が出てきますが、孤独や悲しみの中に入り込んでしまって抜け出せなくなったような人はそんなことを感じる時があるんでしょうかね。
私は、孤独や悲しみを感じることはあっても、そんなことあまり感じたことが無いように思います。
ずっと愛情を注がれてきたのかもしれません。孤独や悲しみの中でも、そこを抜け出せる出口の光を必ず誰かが射し入れてくれていたのかもしれません。
それが幸せなことかどうかは分かりませんが、感謝の気持ちは持たないといけないように思います。
その光を射し込んでくれた人は、間違いなく親でしょう。父は数年前に亡くなり、つい数ヶ月前に母も亡くなりました。
でも、今、悲しいとか寂しいとか、孤独になったとは感じますが、それに囚われて歩みを止めてしまうようなことは無いように思います。それは、親が私に生まれてきた、生きていることの誇りをこれまでの間にしっかりと刻み込んでくれたからなのでしょう。
この作品のように、私はそれを自分の大切な人にきっと、繋げていかないといけないのかもしれません。それが死を迎えるまで、ひたすら生の時を進むしかない人としての使命の一つのようにも感じます。
死というどうしようもない、自らの意志では避けることの出来ない悲しい出来事を描きながらも、そこから生きることの喜びを見出していくことが出来る、それが人としての人生を未来に繋げていくことなのだという死への怖れを超えて、生の素晴らしさを感じさせるような話だったように感じます。
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コメント
初演と今回両方さらっと読ませていただきました。文体が違う(笑)前とこんなに違わはりましたっけ?今までは感じず。照明が美しかったですね。満月動物園さんはash melodyが肌に合わないと感じたんですが当時は小劇場を見始めた頃でまだ派手な舞台に意識があった頃で今見るとまた変わるかも知れないなあと思います。谷屋さんについての評価はわかる部分もあって(笑)最初に観たDVDで噛み噛みやったんです。思い入れたっぷりにされるのかな?されるからなのか良いときとイマイチなときがあるのかもしれませんね。まだそんなに谷屋さん観てるわけやないですけど。素顔は優しいソフトな感じですね。
投稿: KAISEI | 2015年3月 9日 (月) 12時13分
>KAISEIさん
まあ、文章書くのにも慣れたりして、色々と変わってはいるんでしょうね。今でも、観た時の感動によって、けっこう違うんじゃないかなと。
多分、私と同じかもしれませんね。
私も初めは派手なエンタメ舞台じゃないと厳しかったことが多かったです。その中で、徐々に幅が広がって。
満月動物園なんて、美しくていい舞台を創られて、観逃せなくなってきた劇団の一つです。
谷屋さんは・・・、これも私と同じかも。
一度、某プロデューサーと一緒に飲みに連れて行ってもらったことがあるんですが、舞台そのまま、いつもニコニコ、周囲にも気を配られる優しい方でしたよ。
舞台に一人で立たれてもしっかり輝きを放って、見栄えする貴重な役者さんかもしれませんね。
投稿: SAISEI | 2015年3月10日 (火) 14時36分