漏れて100年【突劇金魚】140928
2014年09月28日 アイホール (95分)
2年前に拝見した作品。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/100120507-ca28.html)
あまり覚えていないというのが、正直なところなのだが、ずいぶんと視点が変わっているようにも思う。
終末を迎えつつある世界の中で、そんな世界と隔離されて過ごしてきた一人の男が、やがて、その世界を見詰めながら死んでいくまでのお話。
世界から漏れて、その時間の流れから漏れた男が、それでも、生きるということで、その想いを世界にきちんと残したような、生ということの尊さや力強さが自然に浮き上がるような作品だったように思う。
<上記リンク先、そして下記がネタバレします。東京公演が11月末にありますが、先の話なので白字にはしていませんので、ご注意願います>
前半は、だいたい上記リンク先と同じように思うのだが、さちが一人ぼっちになった頃から、かすかに残っていた記憶と全然、違うような気がする。書いているあらすじも、さちは自分の意思で下界に行くような感じになっているが、今回はそれもまた時の流れに身を任せた感じ。
まあ、書いているあらすじが違うのかもしれない。勝手に記憶を歪めて、嘘を書いてしまっていることは多いから。
仙人が亡くなって、さちは首輪を外す。
自分で生きていく出発点。さちは、芸術という創造の道へ向かう。世界は、ほぼ破壊され尽くされた状態のようで、自然と創造主への道へと導かれたのだろうか。
世界には青鬼が出没するようになる。何なのかはやはり分からない。感じとしては、仙人が忌み嫌っていたこんな世界でも生きて、増えようとする毒虫みたいなものだろうか。
死の匂いを嗅ぎつけるハイエナのようでもあり、滅びゆく世界に人と入れ代わり、生を営んでいく新たな生命体のようでもあり。
そして、さちは無限という生き残りの人を探して、子孫を繁栄させようとする防御マスクをした男と出会う。
さちは、防御マスクをしていなかったからなのか、知らぬうちに体は汚染物質に蝕まれていたようだ。無限によって治療を施される。
やがて、体も安全な状態に戻り、二人は町を目指して旅に出る。
途中、亡くなって放置された骨やその土地の安全性を調べながら。さちは、そんな行く先の土地で果実を育てる。かつて、仙人たちと暮らしていた頃にみんなで食べた、ちょっとくさいけど美味しい果実を。
しかし、無限は、安全では無いと消毒してしまい、捨てられたそんな果実の木を青鬼が狙って食べる。
無限は、土地の安全性を調べるだけで、そこに新たな町を開拓することはしない。生き残りの人を見つけて子孫を残すことだけを考えている。
仙人の連れて来た人とだけ接し、その人がやがて死んでいくのを見届けるという、生を繋げていくようなことを経験していないからか、さちは、そんな無限の考えに本能的な拒絶を示す。
無限は徐々に、肉体的にも精神的にも疲れてくる。
さちの作った植物のオブジェを、かつてさらわれてしまった我が子に見立てて、いつも一緒に過ごすようになる。
失ってしまった家族とは、もう会えない。これから、出会う人と築く絆は、自分たちの生を繋げるための存在で家族とは思えないことを悲しく思ったのだろうか。
青鬼にオブジェを食われ、さらにあの世界を崩壊へと導いた集中豪雨が再び迫る姿を見て、その夜、自らの命を断つ。
地下には、汚染物質を溶け込ませた水が溜まり続けている。
再び、独りとなったさちにも、死が近づいてくる。
青鬼は、子供を産み、増えて、その世界を拡げようとしている。
その中で、さちの頭に、さちの人生においては、経験はしていない家族団欒の姿が浮かんでくる。
これまでの壮大な世界をみるような感覚から、最後に家族の風景まで視点を絞ったシーン。それが、さちが経験してきたことを、日常の姿に凝縮したような感じ。
ぶっきらぼうですぐにほっとけみたいなことを言う荒々しさの中にも優しさが滲む父、口うるさく世話焼きだが、いつも子供のことを想ってくれているような、少し子離れしてない感じの母。
芸人になるとか言って、早くから外の世界に飛び出したいと考えている兄。傍には、赤ん坊の幼き泣き声も聞こえてくる。
これまで、さちが出会ってきた人たちが、さちの家族になって映し出される。さちは、人生の出会いの中で、家族を作ってきたのだろうか。
さちは、そんなことを頭に描きながら、息絶える。
その生への感謝と死への想いを刻んださちの体を食べて、これからの新世界を生きる青鬼たちの下に、創世記のように、このかなり傷つき歪んだ世界にはふさわしそうな、ちょっとくさいが魅惑の味の果実が落ちる。
さちが育てた果実だろうか。
さちは、子孫を残しはしなかったが、その生を全うすることで、本当に、新しい世界の創造主となれたようなことを感じる。
舞台には、ずっと数字が映されて、100までを刻む。さちの生きた100年なのか。世界が終わる100という数字と連動しているみたいだ。
その100を迎えた時に、その世界はさちの生きてきた証に呼応するかのように光り輝き始め、再び始まりを迎えるようなラストだったように思う。
さちの導かれた芸術の世界が、彼の残したものであり、それを吸収した新たな生命が、世界を創造し始める。人が生きることで、世界に残すものの尊さに繋がっているように感じる。
世界から漏れてしまった100年。
その時間の流れの中に、付いていかずに漏れてしまった想い。
でも、そんな想いも、次なる世界へと通じていく。
世界は生きるものがいる限り、その生を取り込んで、創造され続ける。
そんな想いを抱くような作品だった。
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