誰故草【虚空旅団】140713
2014年07月13日 ウィングフィールド (80分)
もしかしたら、今の現実から、そのまま進むと訪れるかもしれない恐ろしい未来の世界。
そんな世界でも、自分たちの幸せを見出すことが出来ることを、女性たちの軽快なトークから導き出そうとしているような話かな。
このままでは大変なことになるという不安を煽り、警鐘している雰囲気もあるが、それよりも、そうなった未来であなたはどう生きていきますかと問うているような感の方が大きい。
ある意味、もはや避けられない未来を自嘲して描いているようなところもあり、楽しく明るさを失わない会話の背景に潜む怖い現実に目を背けられないようになっている。
発電所が攻撃されて、放射性汚染物質のため、容易に外を出歩けない。風向きによってもその数値は変動するので、日々のガイガーカウンターによる汚染状況の把握は必須だ。
男たちは徴兵されているのか、戦災の被害により命を失ったのか、生物学的に劣性である性差により汚染の影響をよりひどく受けたのか、明確には示されていないが、ほとんどいなくなっている様子。特に若い男を見る機会は少なく、見るとしたら軍服を着ている姿となるのであろう。
大切な家族や愛する人を失うことが多くなり、共に過ごすという当たり前のことが出来なくなっている。
残された女性は、健康被害の影響が既に体への兆候として出始めている。定期的な検診は義務付けられているようだが、自分の体への異変に不安と怯えの中にいるようだ。また、子供を産めなくなった人も多い。
主人や家族を失って、子供を産めない女性は、社会的な価値が無いと判断される。こんな女性に対する国の政策は、江戸時代のような5人組制度。
汚染が少ない街から外れた場所で恵まれているとは言えない環境で共同生活をさせ、工場で同じチームとして就労させる。製造しているものは、工場にもよるのだろうが、少なくとも人を幸せには導かないであろう兵器のようなものであることは単純に想像できる。
金銭的に助け合うことが出来るし、また、国への反逆的な考えを互いに監視し合うような意味合いもあるようだ。さらには、誰かが子供を産むことが出来れば、みんなで育てるというシステムになっている。
今、色々と不安に感じていることのほとんどが、最悪の分岐を進んでたどり着く近未来を描いたような感じだろうか。
こんな、とんでもないけど、絶対にあり得ないとは言い切れない不穏な世界設定の中で、ある5人組の一日に焦点を当てて、そこで繰り広げられる会話から今の現実と逃避せずに対峙させようとしているみたいだ。
パーソナルスペースを十分に与えられていない、窮屈な共同生活の中で、様々なことを抱えながら、生きていく5人の女性。
様々なこととは、大切な人を失って、この生活にたどり着いているという大きな前提から、今の生活に関わる色々なことまで。
マスク無しでは出歩けない、洗濯物だって外に干せない日がある、改善の見通しが立たない環境汚染。
アイスを食べた程度で歯が抜ける。体への異変が造血幹細胞の異常にまで及び、骨髄移植の必要性まで出てくる増大する健康被害。
治療費の心配がまず先に出てくる経済的な苦境。
社会的弱者として、追いやられることによる生きている意味、自分の存在価値に対して揺れる想い。
生きていく不安、将来への不安を常に胸に抱いたままで、息が詰まる日々の生活の中で、互いに支え合いながらも、個も大切にして強く生きようと奮闘する姿が浮かぶ。
そんな5人の共同生活する家に、その中の1人の妹が訪ねて来る。
彼女は街で看護師として働く。傷ついた者が出てしまうならば、その傷を癒してあげようという漠然と悪化していく現状への抵抗心を持っているようだ。
でも、そんな戦いに空虚さを感じるようになったのか、今の世界は醜い、人が創り出すものは全て汚いという考えにまで至ってしまっている。最終的に彼女が出した結論は、この国を見限ること、違う国で自分と大切な人で新しい世界を創り上げていくこと。
こんな世界でも、あきらめ半分、希望半分みたいな感じで、まだ楽しく生きてみようとする5人と、また違う形で生きていくことを決意した妹とのお別れ。それでも、互いにエールを送り合い、それがダメだったら、また出会って、どうにかして生きていけばいいんだから、思いっきり自分が今、考えていることに向き合って頑張っていこうとする姿で話は締められている。
基本はみんな笑顔で楽しそうな会話から成る。
失礼な書き方になるが、妙齢の女性たちの、力強さも弱さも感じられるおばちゃんトークなので、悲しんでいてもしゃあないから、苦しいことも冗談みたいに喋って楽しくいきましょやみたいな大阪っぽいノリに心地よさすら感じてしまう。
でも、その背景には恐ろしいことがあることだけはずっと滲ませている。だから、それだけに時折曇る表情に、現実の厳しさを畏怖的に感じ取る。
5人の女性たちは、自嘲するように自分たちをブレーメンの音楽隊にたとえる。
不要になった動物たちが集まって、迫り来る外敵を力合わせて追い払い、楽しく過ごす。お金を稼ぐことや、地位を確立することなんかではなく、日々、楽しい音楽を奏でることに生きる意味を見出そうとする。
確か、あの童話は元々はブレーメンという音楽の都にいって、楽隊に入るという大きな志を動物たちは持っていたのではなかったっけ。
結局、そんな志は捨てて、仲間との楽しい生活がかなう家での人生を選択する。
自分たちに対する社会的な環境から考えれば、楽隊などに入れるわけもなく、この選択肢は決して間違っていないようにも感じるが、第三者視点で見ると、ちょっと間違っているのではないかという感もある。
この間違いだと感じてしまうことへの対象は、この家にとどまる動物たちなのだろうか、それとも、動物たちをそこに追いやった社会なのだろうか。そして、自分は本当に動物たちに間違いじゃないのかと否定するようなことが出来るような生き様を見せているのか。
妹はブレーメンに向かったと捉えていいのかな。
彼女はまだ若い。看護師という手に職もある。そのブレーメンで、大切な人とのより幸せな生活へ向けて旅立つという選択の幅があったということだろうか。
作品としては、共に否定も肯定もせず、ただ、その道でまた苦難が生じた時、互いに受け入れ合う絆だけは忘れないようにしようといった意志を感じる。
5人の女性は、この家で聖者の行進を奏でる。
全く知らなかったが、この曲は埋葬の帰りにパレードで流れる曲らしい。
生き残る5人の女性たち、若い男から成る軍楽隊。
そんな者たちが奏でるこの曲は、やはり戦争での失われた命への弔いなのだろうか。この世界に対する、国の政策に対する、その犠牲になった命への慈しみをこめて、出来うる目いっぱいの抵抗も含めているように感じる。
女性たちは生きる意味合いを問う。
人は基本的に善意の生き物。 他人に役立つために自分を犠牲にすることを受け入れることが出来る。
私はそう思っている。特に、日本人ってそういう考えが身に染み込んでいて、損することが多いけど誇りだよなと思う。
作品の中でも、そんな人の役に立つために生きることが一つの答えだといった言葉が出てくる
全体的には、作品中で感じる女性のたくましさをそのまま、人間の強さととらえるべきなのだろうか。
日々、風向きによる汚染物質の状況を気にしないといけない環境で、風を楽しむ風鈴に目をつけ、その音色に心を安らがせるなんて感覚は私にはとても持てない。
異変を示す自分の体には、その絶望を世界への絶望と同調させて、希望など何一つ持てなくなるだろう。
音楽を奏でたり、聞くなら、破滅的なロックとかになるのではないだろうか。
結局、希望より、破滅を信じて、世界と一緒に自分の身を滅ぼしそうである。
どんなに厳しい現状でも、それを受け入れて、その中で小さくてもいいから光を見出す。
そうすると、そこに楽しい時間が生まれるのだろうか。
この作品では女性しか登場しないので、やはり女性はそういう能力に本能的に長けているのではないかと感じる。
自分一人ではそんなこと出来なくても、一緒にそれを見つけてくれる人がいるなら、幸せになれるのかな。
だから、結婚ってするのかなという、よく分からない結論を自分の中で導きながら、帰路に着いた。
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