友達【sunday】140714
2014年07月14日 アイホール (120分)
安部公房の戯曲の上演。
不条理な設定の中に潜む、押し付けるという暴力性がやたら気味悪く胸に残りながら、登場人物たちの感覚のズレを楽しむような話でしょうか。
楽しむというか、自分でもどうしたらいいのか分からず、ただただ不安になるといった感じです。
観ていて心地いい作品ではありません。
でも、何か間違いだと感じるところに、自分たちが生きていくことへのヒントが隠されているようにも思います。
舞台はとても美しい仕掛けが盛り込まれており、それを存分に味わいながらの観劇でした。
婚約を控えた一人暮らしの普通のサラリーマンの男。都会のそこそこの会社で課長代理を務める。
婚約者におやすみの電話をしているところに、客が訪れる。
おばあちゃんに、おじさん、おばさん、その息子と娘である三兄弟に、三姉妹。総勢9名。
連中は、孤独な男に隣人の愛をと訳の分からないことを言いながら、まるでかつてからの友達、さらにはもう家族同然だとばかりに、グイグイ押し迫ってくる。
警察を呼んでも、あまりにもけったいな話なので相手にしてもらえない。むしろ、なぜそんな被害者のようになっているのかといった扱いを受ける。
手グセの悪い長男には金を盗まれて実被害を受けるし、次男は攻撃的で飄々と暴力で支配してもいいんだぞみたいな感じが腹が立つし、三男はちょっと冷めて学があるようなところがイラっとする。
長女はいい女風の色気を出して打算的だし、次女は宗教のように理路整然とこの環境を受け入れるべきと上から目線で説教じみて接してくる、三女は自由気ままで好き勝手に遊んでおり気がおかしいくらいだ。
父親は何か勝手にあまり威厳の無いリーダーシップをとって、男に寄り添うように共同生活のルール作りをし始めているし、母親は要領よく巧妙な言動で経済権を確保しようとする。
ばあちゃんには、年寄りを盾にわがままを当たり前に口にされて、タバコを勝手に吸われる。
男は、怒りと諦めの感を交錯させて、あっという間に憔悴。
疲れ切った男は、連中をとりあえず、一晩だけ、宿泊させることにする。
翌日、昨日の異様な事態を婚約者に説明しようと外で待ち合わせをして会おうとするが、あの連中たちが先回りして、詭弁を使って、男の方がちょっとおかしくて悪いみたいな感じにされてしまう。
一番、信頼されて然るべきの婚約者にも疑いの目を向けられ、さらには、その兄までもがたやすく洗脳されてしまう。
無力感に支配され、逃げ場を失った男は、帰宅して、長女と肉体関係を結ぶ中で、一緒に逃亡することをそそのかされる。
しかし、次女はそうなることを既に読んでいた。長女は非難されるものの、巧妙に悪意を男に押し付け、家族会議により、男は監禁されることになる。
婚約者にも去られ、長女からも裏切られ、鳥籠の中の鳥になった男は、面倒を見る次女に生を支配される。
外界の情報は封鎖され、孤独の空虚な時間を過ごすことを強いられる。
そして、最後には毒入りの牛乳を与えられ・・・
安倍公房の原作戯曲を忠実に再現しているみたいです。
アフタートークで、改変が厳しいのでセリフなどは一切変更していないと言われていました。
設定としては、ちょっとしたブラックコメディーみたいで、笑いが出そうなものですが、そんな感覚は一切無く、ひたすら気味悪く、何か不安になるもどかしい気持ちで観ていました。
何を伝えたい話なのかなあ。
原作が発表されたのが1951年、戯曲になったのが1967年らしい。
何となく、時代的に、個を重視した生き方が根付き始め、そうなると大衆を管理しにくくなる国の押し付けたコミュニティーの大切さや、家族愛やら絆を盾に、個を主張することを非難しようとする組織に対して、騙されるな、結局、それに従属すると、この男みたいに鳥籠の中の鳥のように飼い殺し状態になり、最後に不要になれば毒でも飲まされて、孤独の中で死んでしまうぞ。そうなったとしても、組織は何も困らない。だから、徹底的に潰しに掛かってくる。組織の巧妙さは個人が抵抗出来うるものでは無く、組織に所属しない意志を示す者が悪いみたいな感じにいつの間にかされてしまう。みんな仲良く、助け合って生きていきましょう。一人では出来ないこともみんなでやれば色々なことが出来ますといった正論の大義名分をぶつけてくるから、いつの間にか自分が世を悪くしている加害者みたいに洗脳されてしまう。
と、そんなことを警鐘しているように感じました。
この作品の家族は、どこか家族に見えない。
色々な個性が集まって家族というのは当たり前だと思うが、それでも、どこかで共通するベースみたいなものがあり、それが絆や繋がりを感じさせるのだと思う。この作品中の家族はそういった一体感が全く無いように見える。個の集まりのレベルで終わっており、集団を形成するには至っていないような感じかな。
ラストで、私たちなんて逆らわなければ世間だみたいな言葉があるが、何となく感じたことと繋がるのかもしれない。
結局、こうした押し付けに抵抗する唯一の術は、本当の絆で繋がった友達を得ることではないだろうか。それと、絆で繋がる家族の大切さを認識することもだろうか。
それは、この話のように押し付けられて得るのではなく、自ら求めて得るものであろう。
個の自由の大切さは否定しないが、それは孤独とはまた別のものである。
自由であることに執着し過ぎることで、その隙間を巧妙に突かれ、いつの間にか孤独に陥ってしまう最悪のケースを描いているようにも思える。
自分自身を侵略してくるものなどは、生きていれば常に存在しており、それに本当に抵抗できるだけの武器は常に持ち合わせておく必要がある。
それが、友達であり、人と信頼し合える自分の心のような気がする。
過去の戯曲を今、公演するなんてことを考えると、現代社会において、自分に侵入してくるものは何だろうか。
膨大に溢れる情報とかかな。
知識を得るということより、自分の価値観を揺らがし、かつ人を信じる心を失わせたりもする感覚の方が強い。
あなたは一人では無いですよみたいな感じで、知りたくなくても勝手に入り込んでしまう情報。
その真意を的確に捉えることのできる自分、そして、その情報を共有して共に議論できる友達、家族。
そんなものが抵抗手段の武器の一つになるように感じる。
舞台セットや役者さん自身が創り出す影絵を使った視覚効果。生演奏と歌による聴覚効果。
見せ方が凄いですね。感動ものです。
アフタートークで、影絵とかはミニチュアで想定して考えて創られたものらしいです。舞台でそれが実現できるかは、しっかり試すほどの時間も無く、頭の中でずっと描いていたみたい。
凄い想像力だなあ。それがあんな素敵な舞台になるとは。
解釈の仕方は難しい作品ですが、巧みな舞台で過去の名作を味わえて楽しかったです。
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