« 風のピンチヒッター’14【吉本新喜劇 佐藤太一郎企画】140625 | トップページ | 白のキャンバス【演舞集団コノハズク】140628 »

2014年6月26日 (木)

覚めてる間は夢を見ない【桃園会】140626

2014年06月26日 ウィングフィールド (90分)

当日チラシの役名の一部を拝見して、これは観たことがある作品なのだと気付く。
観始めても、確かにそうだ。
観終えて、その時のブログを読み直そうと、桃園会で検索しても出てこない。
そんなはずはないと、必死に記憶を呼び起こしたところ、ようやく見つかった。
遊劇体の公演だった。
http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/120618-ff71.html

まあ、見つかったからといって、何か大層なことがあるわけではないのだが、遊劇体で拝見した時のことと併せて考えると、少し、この一連の三作品の魅力に近づけた気がしないでもない。
死を真摯に見つめた者が、生への強い想いを得るような話です。
そこには、厳しい現実、出会った悲劇の中から浮かぶ死を粛々と描いていますが、それ以上に生への想いを優しく描いていることが分かります。
命を失った者と出会い、語リ合う夢の世界を通じて、今、自分を想う優しい人たちの想いに気付き、それをしっかりと受け止めるという強い覚悟が感じられます。
ただ、それがあまり仰々しくならないように、自由気ままな猫や、命失った者たちをモノに比喩して表現したりと柔らかさもある素敵な作品です。
生きていることは素晴らしい。人は輝いている。辛い死の現実はあれど、これも真の言葉なのだと思います。

・ある漁師の話
上記リンク先の一話目の感想を参照。
舞台は1995年1月17日夜、私の家の居間。つまりは阪神大震災の夜で、周りが崩壊しまくった中で、かろうじて原形をとどめている居間で途方に暮れているといった状態みたい。
今、病室にいる私の見る夢のような形で描かれているのだが、実際に、私はこの震災の被災者だったのだろう。恐らくは、この時、周囲の死を現実なのか夢なのか、揺れ動きながらも、ぐちゃぐちゃになった庭やら、色々な物が散乱する部屋のあちこちを見て、受け止めざるを得ないような状況だったように感じる。同時に、自分は生き残ったという生も深く感じていたのかもしれない。
そこに訪ねてくるのは、自分の今の仕事に深く関わりがある叔母。彼女は三話目になるまで明らかにされないが、小児麻痺で足が不自由だったため、トイレで頭をぶつけて亡くなっている。
そして、友達と一緒に遊んだマグラというソフビの人形。マグラはウルトラマンに出てくる地底怪獣らしく、時を経た今、ヒーローのウルトラマンよりも、あんな惨事を引き起こしたような地底怪獣の方を思い起こしているようだ。そして、恐らくはその一緒に遊んだ友達は、この震災で命を失ったのだろう。
父の靴も訪ねてくる。幼き頃に家を出て行った父との思い出は、あの頃の自分には大き過ぎたブカブカの靴。恐らくはそんな父も、もうこの世にはいない。

2011年3月11日。あの東日本大震災をテレビで見た私は、かつて自分が経験した阪神大震災を思い起こす。そして、恐らくは起こってしまった東日本大震災で失われるであろう多くの命を慈しみながら、自分もかつて失った大切な人たちの死に想いを馳せる。
その人を思い起こさせる数々のモノたち。そこには、その人たちが生きていた証が刻まれている。そんなモノすら、震災は地中深くに埋めてしまったり、はるかかなた海の向こうへと流してしまう。それでも、自分の心の中に残るその人たちの生の姿は、深く刻まれており、こんな夢の形で姿を現したようだ。
以前に拝見した時のことを覚えていないのだが、ここで猫が出てくる。私の家の居間に猫がいるはずがない。だって、みんな猫が嫌いだったから。
それでも、猫は私の傍をウロウロする。そして、この夢の旅に、銀河鉄道の夜のように、一緒に付いてくるみたいだ。もしかしたら、ずっと私の人生を影で見つめ続けてくれていたのかもしれない。

・覚めている間は夢を見ない
ここは、ちょっと以前に拝見した上記リンク先の2話目と違っているみたい。少なくとも、私のブログを読み返した限りでは。ただ、自分のブログはそれほど信用にならないところがあるので、もしかしたら、分からないからとむちゃくちゃに書いているのかもしれない。
舞台はあるマンションの一室。そこからは、すぐ近くに病院が見える。私は、その病院の一室にいるようだ。
そのマンションの一室に、自分の部屋だと言い張る男と女。さらには、もう一人、女もやって来る。
男は犬を連れている。この夢の世界では、その犬に私はなってしまっている。
女は一人っきりだが、一番長く住んでいると言い張る。
後から来た女は、彼氏と一緒にここに住んでいるらしい。そして、その彼氏は、両人とも否定しているが、この男なのだとか。

時間軸が狂っているから、よく分かりませんが、このマンションの一室は、今、病室にいる男が住んでいた部屋なのでしょうか。3話目に出てきますが、病室には妻もいます。
よく分かりませんが、病室から、外を眺めて、昔、あそこに住んでいて、そこで妻と出会って・・・なんて思い起こした記憶が、この夢の旅で、今のマンションの部屋にたどりついてしまったとしたら。
見ず知らずの女性がいて、自分もこの部屋の住人だと言う若かりし私がいて、もう付き合いを始めて私が彼氏となったかつての妻がいてといった状態に整合性はあるような気がするのですが。まあ、夢に整合性を求めるほどくだらんことはありませんがね。
若かりし私の姿は、えらい今の私とは異なるごつい男になっています。漁師で荒々しく大きかった父のイメージが交錯しているのかなあと思ったり。
遠くでサイレンが聞こえる。病院のサイレンでもあり、テレビで見た警報音でもあるのだろう。
前回も分からなかったが、私はリッケルト通りに向かおうとしていたけど、まだ行かないということになります。ここも猫が絡んでいるようで、この夢の世界ではどうやら猫は自分だけの神様みたいなもので、その猫と一緒にリッケルト通りに行くことになるみたいなのです。つまりは、死の世界の通り道みたいなものなのでしょうか。
私と一緒にいる猫は、ただ付いてきているだけで、そこに案内する様子を一切見せません。まだ、行く必要が無いといった神様のご判断といった感じなのかな。いつの日か、そろそろリッケルト通りに行きませんかと語りかけてくるのだろうか。何か、死神みたいな感覚になってしまう。それでも、それがその人の人生ですからと、自由気ままに答えるような猫らしさは少し死への安堵も感じるが。

・ぶらんこ
舞台は病室。2011年3月11日。あの東日本大震災をテレビで見た今となっているようです。
ベッドの隣には編み物をする妻。
これまでの夢の旅で出会ってきた、数々の死を刻み込んだモノが現れる。
病室で死を意識する私は、その死をイメージする東日本大震災を通じて、かつての周囲の人たちの死と対面する。
そこで私が得たものは、自分に残る生だったようです。
もう冬が終わるこの時期に、編み物なんて不要ですね。妻はきっと、今年、訪れる冬のことを考えているのです。
死の世界とこちらの世界の境界を彷徨いそうになっている私に、妻は結界を張るかのように、その編み物の糸を自分自身と私に結び付け、さらには夢の世界で出会ったモノたちにくくりつけていきます。
向こうの世界に行くのは、死んだ人間だけ。死の意識が詰まったモノは、死への慈しみと同時に生の尊さの象徴として受け止めてしまうかのように。
そんな姿を見てるのか、見てないのか、何をしてるんだかとおおあくびを一発の猫。
本当に猫が神様なら、まだ、この猫、私をあちらに連れていく大仕事をする気はないかのように好きなようにしているみたいだ。

|

« 風のピンチヒッター’14【吉本新喜劇 佐藤太一郎企画】140625 | トップページ | 白のキャンバス【演舞集団コノハズク】140628 »

演劇」カテゴリの記事

コメント

2話目の「覚めている間は夢を見ない」は、新作だそうですよ。

投稿: まいごのみずのさん | 2014年7月 1日 (火) 19時01分

>まいごのみずのさん

コメントありがとうございます。

そうみたいですね。
ブログ拝読しました。
私は、あやかしで拝見した時の2話目と頭が交錯してしまって、よく分からなくなってしまいました(゚ー゚;
リッケルト通りとかのキーワードは一緒だったので。

確かに、木全晶子さん、独特の空気が目を惹きましたね。

多分、照明をされている公演で、お会いしているのでしょうけどね。お顔を存じ上げないもので。多分、イラストとかから、あの方かなあなんて思っている方はいるのですが。

旗揚げ公演含めて、照明で益々ご活躍ください。

投稿: SAISEI | 2014年7月 2日 (水) 09時41分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 覚めてる間は夢を見ない【桃園会】140626:

« 風のピンチヒッター’14【吉本新喜劇 佐藤太一郎企画】140625 | トップページ | 白のキャンバス【演舞集団コノハズク】140628 »