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2014年5月 9日 (金)

2001人芝居【豆企画】140509

2014年05月09日 京都大学西部講堂 (70分)

野田秀樹作品。
どうもしっくりこない感覚が残る。
作品が創られた時代とはだいぶ変わったのだろうか。
何か、ズレた視点で責められているような感覚が残り、妙に反発したくなるような話だった。

一人芝居を演じる役者さんは伊藤泰三さん。
恐らく初見だと思うが、非常に魅力的な方だった。
七変化の中にも一本筋の通った一人の男を演じる真摯さが感じられる。
性別やキャラを越えた様々な人を演じており、ちゃらちゃらした笑いを組み込んだりもしているが、総じて深みを感じさせる熱演を魅せる。

<以下、若干ネタバレがありますが、有名作品なので検索したらもっとしっかりと書かれている感想がありますので、白字にはしていません。ご注意願います。公演は日曜日まで>

前説は四方香菜さん。
実は、この作品を演じる伊藤泰三さんには失礼な話だが、この方を目当てで足を運んでいる。
まあ、そのおかげで、ちょっと今後も観てみたいと思える役者さんと出会えたのだから良かったといったところだ。
作品にちなんで、前説も一人芝居をすることになっているらしい。
数年前に一年通じて毎月、一人芝居公演をされていたのでお手の物だろう。私もコンプリートは出来なかったが、大半は足を運んだので今となっては懐かしい。
ネタは、前説を色々なバージョンでするというもの。
小劇場の独特のオドオドした感じ、商業演劇で見られるちょっと気取ったアナウンス口調、キャラクターショーのおじさんには厳しいテンション、キャラクターそのものになりきった弾け具合、ヤギと羊のモノマネ、嘘だらけのシュール、公演の企画製作をされている先生の内輪ネタ、ミュージカル・・・
小ネタの寄せ集めだが、恐らくは、DJやレポーターの活動が中心になり、少々、小演劇界からは疎遠になってしまってはいるが、その代わり、違う分野で様々な経験を積んでいるから出来るようなものになっている。
表現をすることに、きっと分野はそれほど関係ないのだろう。どんな分野でも、その経験が互いに活かせるのかもしれない。願わくば、演劇中心に表現を観ることで楽しむ者としては、そんな様々な経験をまた、舞台で発揮してくれたら嬉しい。その時は、きっとより素晴らしい作品を楽しめるのだろうなということが、何となく期待できるような気になった時間だった。
しかし、ミュージカルはえらい声が震えていたな。カラオケがお上手という噂を聞いていたのだが。久しぶりでさすがに緊張したのかな。

で、肝心の作品だが、どうも掴みどころの無い、よく分からないものだった。
父が日本人、母がトンガ人で、4歳までトンガに住んでいた少年が日本に父と戻って来てからの苦悩を描いたような話から始まる。
人一倍、体がでかいものだから、常に周囲に気を使って、人の顔色を伺うような日々を過ごすが、なぜかチリチリの頭の毛をパーマをかけていると言われると、感情を抑えることが出来なくなり、むちゃくちゃしてしまう。からかった友達は半殺し状態に。
相撲か少年院かみたいな話になり、部屋入りする。それなりに頑張るものの、またパーマをかけているというファンの一言で辞めることに。
その後も野球、ボクシング、プロレスのレフリーと志すが、どれも上手くいかず。
重量上げの選手として活躍していた時に、記憶から消えていたトンガ人の母から手紙が届き、その写真を見て、母のことを思い出し、受け入れることで、もうパーマうんぬんでキレることもなくなった。

パーマをかけているという言葉が、生まれ持ったものへの否定みたいな感じかなと思いながら、この辺りまでは観ていた。
例えば、日本に生まれていて、他人に日本を否定されると頭にくる。でも、そんな気持ちは、自分自身にもあるから、余計腹が立つ。自分が傷つく分、相手も傷つけたいみたいな気持ちが生まれる。
でも、その日本のいいところも悪いところも受け入れられるようになり、自分の出生と対峙できるようになれば、その中で活躍できる居場所を見出せるようになる。
作品自体は10年以上も前のものみたいだが、野田秀樹作品ともなると、先の時代を見越していることが多いので、ちょうど今の日本人が日本を誇りに思えなくなってしまっているような世の中への警鐘みたいな感じかなと。

ところが、どうもこれはモニター症候群というモニターに映し出される人たちと同化して、その人の世界を生きてしまうという患者を治療する医師の話みたいだ。
上記したトンガ人の母を持つ男の話はその一例で、続いて百人一首の名人、ガン患者、集中力で何でも出来ると考える宗教にはまる人、幕末の志士、生命の神秘を知るお嬢様・・・など色々な人たちがモニターに映し出され、それを模倣するかのように、背中にスクリーン、前にテレビモニターを配置した舞台で一人の男がめまぐるしく、そんな人たちになっていく。
恐らく、この医師自体もモニター上の医師と同化したモニター症候群の患者の一人なのだろう。
それは退屈な人生を潜在的に悲観して、虚構の世界に幸せを求める人の姿のように映る。幸せを求めるというか、映し出されるモニター内の人と同化するのが普通になっているから、苦しみが無いといった感じか。生きることはそれほど難しくないなんて言葉が出てくるが、そんな言葉自体が、もう現実世界で生きることを否定しているように感じる。
やがて、医師は治療することが是なのかに疑問を持ち始める。
モニター症候群の人たちは、モニターがあれば孤独を感じない。
それならば、宇宙船の飛行士に最適なのではないか。
想像もできないくらいの長時間飛行から生じる孤独感に耐え、かつ地球に戻るという感覚も無い。
だから、モニターの前に生まれたばかりの赤ん坊を何人も捨てたと医師は告白する。
モニターでは、その告白に対し、インターネット上での有罪か無罪かの裁判が行われている。
圧倒的な多数で有罪とカウントされたアンケート結果がモニターには映し出されている。

モニターの前に捨てられた子供たちが成長した姿が私たちなのだろうか。
モニターがあれば、その世界に同化する、孤独を感じないというのは、そもそも違うのではないだろうか。
孤独を感じたから、私たちはモニターをテレビという単なる受信するだけの装置にとどめず、インターネットを創り出し、SNSなどのネットワークを確立しているのではないか。
それは確かに本当の人同士が触れ合う場では無いから種々の問題が生じているが、どうであれコミュニケーションを前提にしていることは間違いないように思う。
さらには、モニターをずいぶんと小さくして、いつでも携帯できるようにして、それを現実世界で生きる中でも、人とコミュニケーションを取る媒体として作り上げた。
モニターは孤独感を消失するのではなく、孤独感を増長させた感の方が大きい。

モニターに映り出される世界は、いつか終わりが来る。自分の人生はまだ続いているのに。
その時に、この世界は自分の世界ではなく、誰かの世界だということを知る。
だから孤独を感じる。
そして、その誰かを求めて、モニター上ででも、その人を探し求めようとする。
インターネット裁判のように自分の意見を発信し、その共有化を計ろうとする。
そんな生きるスタイルは否だろうか。
恐らくはテレビ世代への警鐘みたいなものが含められているように思うが、そのテレビだって、今は見ているのが自分だけでは無い、他の人も同じ世界を見ていることを意識させるようなシステムになっているのではないか。

宇宙船にモニターの前に捨てられた子供たちを乗せたら。
孤独を知らないから、孤独に耐え、地球に戻ろうという意志も抱かず、宇宙を永遠と彷徨う。
そんなことにはならない気がする。
かつて、そうされた子供たちは、宇宙船地球号の中で、孤独を見出し、それを解消するために、歪んでしまっているのかもしれないが、自分の世界を創り上げながらも、他人の世界も見ようとしているような気がするのだ。
そして、生きることはそれほど難しくないなどとは、間違っても思わない、思えない世界を生きているように感じる。
モニターの前にほっぽり出されて、何も考えず、何も感じず、生きるなんて、そんなに人は馬鹿では無い。その中で、ここから何かを変えよう、何かを創ろう、そして、何かを感じようとしていくのが、人の力なのだと思う。

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