無差別【東洋企画】140320
2014年03月20日 大阪大学豊中キャンパス 学生会館2階大集会室 (90分)
昨年、柿喰う客で拝見した作品。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/121003-b399.html)
話としても、その演出も難しい作品だと思うが、熱量ある動きと、真剣な眼差しでの心情のこもった演技が光る。
作品の世界により浸らされる大掛かりな舞台セット、神話と現実の世界を交錯させるような衣装など、不思議な世界観を味わいながら、作品名の差別や、生きるということの意味合いを考えさせられる作品でした。
あらすじは、上記リンク先を参照。
話としての感想も大幅には変わらない。
ただ、本家の方の公演をそれほどしっかりと覚えてはいないのだが、作風はけっこう、異なる印象を受ける。どちらが、優れている、劣っている、面白い、面白くないではなく、また、本家とは違った作品として仕上がったような感じである。
力強さは、かなり意識して前面に押し出しているのではないだろうか。
人の生きるということへの本能的な執着みたいなことが感じられる作品である。生に溢れる若い世代が描く作品にその力強さを強く感じるのは当然のことかもしれない。
また、本家の時は恐らくそれほど強く感じなかったから、感想にも一切、言及していないが、今回は、生きるということを、生かされているという観点で捉えているような感覚を得た。
差別する者も差別される者も、そして神ですら人によって生かされている。獣もかな。
互いの生は、生きとし生けるものたちの命を全うするという強い精神の基で成立しているような感じだろうか。
そこに生への感謝、生を失った者たちの上に私たちの生は存在していることを見出し、死者への慈しみが浮き上がってくる。
舞台は六角形の台の中央に歪んだ自転車などのガラクタから一本の支柱が立っている。
六角形は結界か何かだろうか。頂点の一部には花が咲いていたりする。
神話の世界と現実を交錯しながら話が展開しているようなところがあるので、何となくイメージはしやすい舞台セットである。
歪んだ自転車は、今の文明社会の産物、原爆による破壊。支柱は、空へ向かってそびえ立つ大きな一本の樹、逆に空から地面に向かって降り注ぐ天災や原爆などの人災をイメージする。
日本の歴史的な背景と、地と空を結び付けている世界観を感じさせるこの舞台は、時間軸と空間軸が共に存在していることを印象付けさせられるシンプルだが深い舞台に感じる。
感想をリンク先でほとんど書いてしまったので、役者さんにコメントしながら、簡単な感想を。
役名もその時、拝見したものと照らし合わせています。
イヌキチ、東洋さん。自己嫌悪、妹への真摯な愛、執着する人への欲望。様々な心情を苦悩をベースに、体からもう限界なんだとばかりに溢れくるような力強い心情表現。そして、最後は戦争でこれまでの苦悩が消えることもなく、より一層深くなって戻ってくる。
それでも、彼の目はこの先を見詰め、生きることを選択する。そこに希望があるのかは分からないけども。このあたりの感覚が、この作品の生きることを描いた中での一つの答えのように感じる。
イヌコ、塩焼鮭子さん(劇団カオス)。この方だけ、恐らく初見。
役どころもあるのか、透き通ったイメージを持つ。仏を彫る中で、自らにも仏の精神が宿ったのか。透き通った鋭い視線で世の中を見詰めるかのような、どこか冷たくも、温かくもある雰囲気が印象的。
この仏というのが、この作品では、神とは異なる形で描かれているようである。神様も仏様もそれほど区別はせず、どちらも自分を助けてくれる最強の存在のイメージだが、この作品の神様は後述するがいい加減なものである。自らを救うのは、自分の心に仏の精神を宿すといった日本古来の宗教的な感覚がそこに芽生えているようである。
テンジンサマ、久保健さん。世を俯瞰する。人間をかな。
同じ神様においても、権力の格差社会を作り出し、人間に対しても薄情な感じ。そんな何か嫌な気分になる雰囲気を醸す。
神の怒りは理不尽で不条理で、人間自らの手による戦争や原爆などの人災と大きな差が無い。天災も人災も、神罰も全て同じような捉え方。神をも殺す原爆。人があがめるべきは、そんな自らにとって脅威的な存在だと言うのだろうか。よく分からないが、今の信仰精神への警鐘なのだろうか。この作品の神様は元々、人であったみたい。自分たちから生み出された驚異的な存在が神ならば、それはあがめるべき存在では無いように感じる。そこで、上記した仏のような存在を今一度、自分たちの日常に見出さないといけないように感じる。
オオクスノコダマ、ゴミさん。欲望の塊。あがめられるべき人に、そして上位の神に殺され、恨みの塊となる。これこそ、もはや神では無い。人間だ。でも、人間は自分のための欲を持つが、自分のことだけを考えるのではなく、同時に、人のことを想っているようなところがある。それはイヌコを想うイヌキチ、イヌキチを想うイヌコなどを見れば分かる。犬のヒトの子ですらイヌコのことを想っている。欲望を自分のためだけに解消しようとしている存在が神みたいに思えてくる。その行き着く先に、出来上がったのが、人を傷つける原爆だ。私たちは誤った神を創り出しているのだろうか。
とんでもない神様だが、相変わらず、場を転調させるのが、とても上手い。こういった深刻な雰囲気が強い話の展開を崩すことなく、緩さを絶妙にもたらす。
ヒトの子、ことねさん。一番、分かりやすいキャラだろうか。イヌコを母と慕い、彼女からの愛情を求めると同時に、自らもその愛情を彼女に降り注ぐ。最後は自分の生を失ってまでも。
ただ、このヒトの子は、本来は人間が生きるために食される赤犬である。愛玩と家畜といった、人間が生きる上で、獣から得るほどこしみたいな感じだろうか。一方は死をもってそのほどこしをいただく。もう一方では、生をもってその愛情を受ける。その境界は曖昧で、不条理なものであるが。人間はきっとこうして、人以外の生き物からも多くのモノをもらって生かされているのだろう。
それと、基本、犬役をする人は可愛いというのが私の勝手な持論だが、今回も間違ってはいなかった。
ヒミズヒメ、佐原瑞貴さん。強烈な迫力ある演技。ヒステリックにも見えるハイテンションが、最後まで持続する。ただ、ずっとテンション高く叫びまくっていたわけではなく、ところどころ、息を抜いた引いた視線となって、それを笑いに変える。非常に巧みな緩急つけた演じ方に終始、目を惹かされた。
かたわに生まれ、差別を受けるが、それでも生きる執着を見せる。そして、最終的には差別をした者たちを死にまで追いやることになって、自らが神にまでなる。被差別から、いつの間にか差別側に変わる。こんな一見すればあざとさが、生きるということへの力強さを感じさせるところとなっている。
人が欲を持つことをよく理解しており、生きるために、性欲をそそのかして人を犠牲にし、自らの幸せのために、他人や世界のことは考えずに、愛する者を独占しようとする。そこに、紛れもない人間が浮き上がってくる。
舞人、角野清貴さん(劇団六風館)。能や狂言の世界観を醸す設定なのだろうか。落ち着いた静の演技で魅せる。この作品自体が、彼の語りで紡がれているような感じである。差別や欲望とは別世界のようなところにいるようにも見え、悟りの境地を得た法師が、これまでの歴史を語り、未来への道しるべを私たちに導かせようと説法しているような感覚を得る。生も死も感じさせない中立的な存在感が、実は、私たちが通常、描くような救済の神を表現しているのかもしれない。
脅威や畏怖ではなく、また単に欲を叶えるために生み出されるようなモノでもなく、自然に自分たちの生を高めてくれるような存在として、世に姿を現しているような感じだろうか。
| 固定リンク
「演劇」カテゴリの記事
- 【決定】2016年 観劇作品ベスト10 その3(2016.12.31)
- 2016年度 観劇作品ベスト10 その2(2016.12.30)
- 2016年度 観劇作品ベスト10 その1(2016.12.30)
- メビウス【劇団ショウダウン】161209(2016.12.09)
- イヤホンマン【ピンク地底人】161130(2016.12.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント