ライトハウス【空の驛舎】140228
2014年02月28日 アイホール (95分)
認知症の父を持つ家族の介護における葛藤を描いた作品。
家族と共に、介護職の人たち、周囲の人たちとの関わりを示しながら、これから辿るべき道筋を探し出すような話だろうか。
作品名のライトハウスは正しい家という意味を持つRight Houseと、灯台の意味を持つLight Houseからつけられているらしい。
介護における正しい姿とは。つらく苦しい介護に光ある道筋は見つかるのか。
その答えが、観れば、各々の頭に浮き上がってくるように思います。
<以下、登場人物の特徴を記すことで、話の内容がネタバレするような感想になっています。ただ、この作品を観劇する上で問題ないと判断して白字にはしていません。気になる方はご注意ください。公演は日曜日まで>
田舎町に独居する初期認知症の父がいる家族の話。
母はもう20年前に亡くなっている。
長男、長女、次男と全員、家を出ており、ヘルパーの介護を受けながら、父は独居生活をしている。
昔は、この町の役場に勤めており、本人は町のために随分と貢献したことを誇りにしているみたいだが、今はのんびりと町をいつも散歩している単なるお年寄りだ。
認知症も徐々に進み、寂しさから来るのか、夜中の徘徊行動も顕著になっているみたい。夜中に助けてくれとよその家の玄関を叩きまくり、怒鳴りつけられたこともあったらしい。
元々、歳と共に体の不調が大きくなっていたみたいなのだが、ある日、突然、お腹が痛くなって、発見したヘルパーにより救急車で病院に搬送される。
意識消失状態で点滴処置を受けていたところ、目覚めて錯乱状態になったみたいだ。認知症なので、自分の置かれた状況が分からず、パニックになってしまったらしい。病院で、飛び降りようとするぐらいの相当な大立ち振る舞いをしたらしく、満床を理由に入院を断られ、今後の通院も遠慮して欲しいように言われる。
と、こんな事件をきっかけに、兄弟たちが集まることになる。
これまでも、胸の奥では考えないといけないと思いながらも、引き延ばしてきたのだろう。
父の介護問題を真剣に話し合うこととなる。
長男は若い頃に父と喧嘩して以来、ほとんど家に寄り付かないようになっている。今となっては喧嘩の原因すら互いに忘れているみたいだが、父譲りの頑固な性格が災いして、仲直りのきっかけを失ったみたい。
今はかなり遠方に暮らしており、物理的にも顔を出すことがなかなか出来ない。
結婚しており、子供はいないみたいで、妻と二人暮らし。頑固者の夫を優しくたてることが出来るなかなかの賢妻。長女や次男も、やかましい兄貴よりは、よっぽど慕っている様子。
妻は適応障害を患っている。その原因が介護を職とする福祉活動を行っている中、効率を重視するため、人を物のように扱う、扱わざるを得ないシステムに恐れを感じたからだ。そのまま逃げ出して、外に出ることが出来なくなった。そのため、夫の父も兄弟たちも、みんなが納得できる最善の道が見つかって欲しいと兄弟たち以上に強く思っているみたいだ。そして、そのことは、今、苦しんでいる適応障害を克服するための一つの道筋になることも頭にあるのかもしれない。
長男は、どうしたらいいのかという結論だけを急いでいるような感じでかなりイライラしている。
感情や正論を抜きに、どうするのが一番、みんなにとっていいのかを突きつける。
それは、まるでウィンウィンの関係をベースに議論されるビジネスのように感じる。
誰が面倒をみるのか。みれないならば、誰がこの家に戻って来るのか。施設に入れるのか。入れるならどこに入れるのか・・・
言葉では、家族も父も納得できる最善の策をと言っている。でも、そこに父の納得という言葉は薄い。
彼の言動を見て、何となく、医薬品会社と医師が、ある薬を開発するときに、互いに利益をもたらす調整点を見出すような話し合いをすることを思い出した。企業側は利益を出して社会に貢献するため、医療側は最善の治療を行って社会に貢献するため。どちらもベースに患者のためということはもちろんある。でも、企業と医療の互いが納得するための道を検討する場では、なぜか患者の存在は薄くなってしまうことがある。これは、きっと、ビジネスの世界では、患者を人として捉えていないからだろう。極端な言い方をすれば、薬を使用するということに付随するものみたいな感じだ。人同士の話し合いは、あくまで企業と医療だけになってしまっているのかもしれない。
システム化する介護において、介護される人が物扱いされてしまうことと、少し似たところを感じる。介護だってビジネスではあるから。
ただ、家族における介護問題にその考えは不要だろう。人同士、特にその関わりを一番深く持つ人同士なのだから。
長女は、支援学校に勤めている。
家からまずまず近いので、結構な頻度で帰省しては父の様子を見ている。
認知症の進行具合、ケアマネやヘルパーとの連絡など、今の父の状況を一番よく知っている。それだけに、近所で父が、自分たち家族がどのように言われているのかも、耳にすることとなっている。
認知症とは異なるのだろうが、支援学校の生徒たちとの通じ合いの経験が、今回の事件に対する視点を長男とは変えているようである。もしかしたら、女性としての本能的な部分もあるのかもしれない。
自分たちのことを考えると同時に、常に父がどうなのかをベースに言動しているような感じである。
次男は、フリーターで、バンドで世に出るという夢をまだ追い掛けている。いつまでも、このままではいけない、どこかで区切りをといった時期に差し掛かっているようだ。
長男は家庭もあり、物理的に遠いこの家に戻って来ることは出来ない。父を引き取るにしても、義理の姉の問題もある。
長女は仕事と父の介護をこれまでも両立させてきた。結果的に、気丈で優しい姉に負担を強いていることはよく理解している。このまま、それに甘んじることは出来ない。
となると、消去法的にも、自分が戻って来るのが一番なのかなあ。先が見えてきた自分の夢を断念するための言い訳ではないが、決意するきっかけにはなる。
といったことが頭の中で揺らいでそうである。
不安定な自分を中心に、今回の事件をきっかけに変わり始める環境を見詰めている。
隣人夫婦は都会から、この町に最近、引っ越してきた。
認知症が進行した夫の父を施設に入れて。
夜中、徘徊する父を怒鳴り続けたのは、この夫婦である。
今は、この程度で済んでいる。これから、もっともっとひどくなる。それを自分たちは知っている。
だから、今のような介護をしているようでは無理である。
そんな考えを、この家族に押し付けようとする。
この作品の一つのテーマでもあるようだが、介護に正解は無い。確かにそうだろう。各々の環境から介護の形は変わる。
でも、よくよく考えると、じゃあ不正解も無い。
正解も不正解も無ければ、どうしたらいいのか。
自分たちが正しいと信じる道を・・・といったところになるのだろうか。
これはきっと難しい。特に試験社会や現代教育においては、正解、不正解を明確にさせることを基本とされてきているから。
事例が欲しいところだ。そこから、自分たちにとっての正解とは何なのかを掴むことが出来る。
最初、この隣人夫婦に対して非常に嫌悪感を抱いたが、後半はやり方が下手なだけで、自分たちの介護の事例を伝えたかったんだなと思えるようになってからは、そんな感覚が消えた。
この家族の介護は、隣人にとっては他人事だ。だから、関わらない。で、終わらせなかった。
徘徊する父を怒鳴りつけて、拒絶するのではなく、家を訪問してきて、介護に対して一言物申すといった行動をしている。もうちょっとうまくすればよさそうなものだが、厳しくも人を想っての行動だろう。同時に、自分たちを見詰め直すことにもつながっている。
父の介護において、ケアマネージャーを担当する若い男。
彼は、長男の妻が逃げ出したようなシステム化する介護の現場を見て、逃げ出すのではなく、視点を変えて介護を変えていこうとしている。人に寄り添い、同じ視点で介護を考えていくという理想を現実化させようとしている。その姿はこの家族の大いなる励みになっているはずである。そして、長男の妻に対しては、彼女の道筋に一つの光をもたらしたのではないか。
担当するホームヘルパーは二人。
一人は明るく元気いっぱいの女性。経験年数はけっこうあるみたいだ。コミュニケーションをとることが上手なのか、好きなのか、長男の父もお気に入りみたいで、彼女の言うことは体外聞く。
もう一人は、その後輩でヘルパーとしての業務を黙々とこなすことに集中するちょっと暗い男。
ほんの少しだけヘルパーとして働いていたことがあるのだが、その時の自分を見ているようで、少しおかしくて笑ってしまった。
あの時、この作品のような先輩がいてくれれば良かったのに。いや、別にあんな可愛らしい先輩だったらと言っているわけでは無い。ヘルパーの仕事は何なのかを感じさせてくれたら。
関係性を持つ。彼女が後輩に発したこの言葉だけで十分だ。一人の人同士として想い合う。
あの頃は、介護=介助といったような考えだったのかな。歩行、食事、トイレ、入浴・・・と生活するために必要な行動の補助をすることがヘルパーだと思っていたのだろう。
極端に言えば、相手が人であることに無意識だったのかもしれない。
この作品での後輩ヘルパーは、長男の父と無事、関係性を築き上げた。父の戦時中の話を聞いたりする中で、彼のこれまでを表面的に知るだけでなく、心の中にまで入り込めたのだろう。
自分の経験もあって、その姿がとても嬉しかった。
上記した人たちの言動の中から、観る側の介護に関する考えを頭に巡らせるようにした作品だろうか。
特に衝撃的な展開があるわけでもなく、そこには誰もが経験した、もしくは経験するといった現実が漂う。
ただ、一応、ラストは、認知症から一時解放されたかのような父が、家族を含め、自分の周囲の人たちに言葉を投げ掛けるような形で締める。
その言葉は家族には厳しくも優しく、周囲の者たちには深い感謝が感じられる希望の言葉である。
このシーンが捉え方次第だろうが悲し過ぎる。
遺言のように思えてしまったのだ。
認知症は、祖父で経験しているが、現実はどんどん進行して、本人の言葉はもう聞けなくなる。感情は残るという言葉がこの作品では出てくるが、この言葉も正直、現実では疑わしいように思う。
これが父と家族の最期の時になるのだろう。といって、死という形でお別れするにはまだ先があり、その空隙の期間が非常に切なくむなしさを感じさせると思うので、つらい気持ちになる。
でも、間に合ってよかった。言葉が聞けたんだから。
現実はその言葉すら聞けない時もある。
劇中で奏でられるリンゴの唄やからたちの花。
聞いたことはあるけど、よく知らないのでネットで調べてみる。
辛いだろうけど、頑張ろう。それしかないんだ。寄り添ってくれる人たちはいるから、その辛さの中から希望を見つけ出そう。疲れた心に少しでも光を。
といったところが二つの歌とこの作品の共通事項だろうか。
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