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2014年2月25日 (火)

留鳥の根【伏兵コード】140224

2014年02月24日 シアトリカル應典院 (90分)

さびれた港町の5人の人間模様から、生きるということを感じさせるような作品だろうか。
各々が抱える苦悩に追い詰められながらも、力強く前を見据える姿に、何かが心に突き刺さるような感覚を得ます。
5人の言動から、自分を見詰める。
そこには、誇りもあれば、目を背けたいような弱さもあり・・・

舞台は、あるさびれた港町。
舞台左側手前に裕福そうな家の部屋。この町で議員をしている男の部屋みたい。
日々、町のゴミ拾いをして、人助けをアピールする。もちろん、選挙のため。
港町なので、ゴミは魚の死骸も多いが、そんなものを気味が悪いと蔑視する。
上っ面の言動。本当に困った町民の訴えは一切聞かない。相談にやって来た生活に困窮する漁師夫婦も門前払い。彼にとって、弱き者はゴミと同じなのだろう。
作品名にも用いられるカラスのような鳥の集まり、烏合の衆という蔑称を、自分の私欲を満たすことに関わりを持たない、持てない町民に対して使っている。
自分は前向き。後ろ向きなのはダメ。貧しいとか辛いとか悲しいとかは、全部、自業自得。
独りよがりで何が悪い。自分は頑張ったから、今の生活、地位、富がある。人がダメになるのは、努力不足と思っているのだろう。自分自身が全てを照らす太陽のようかの言い方だ。よほど、恵まれた生活で育ったに違いない。
そんなことをおまわりさんに語り、自分が如何に苦労してこの町のために行動しているかを誇示する。弱者の町民をはじめ、低能なあなたのするべき仕事を私がしているかのような言い方で。
自分にとって、本当に大切、いや、役に立つ人で無ければ、思いやりのひとかけらも与えない。 それでも、自分は常に人に助けるという形で思いやりを与えていると思っているのだろうか。だから、人から何かを与えられるのは当たり前と思っているのかもしれない。数々の支援も勝手に向こうがしてきたことみたいに、都合のいいように考えている。
そんな考えだが、これが恋愛観においても適用されている。彼の愛人には、全くの思いやりを見せず、性的欲求を満たすためだけの存在として扱う。

真ん中には漁師夫婦の家。
小さな机で生きるため分だけの食事をし、薄汚れた毛布にくるまって寝る。 要するに貧しい。
二人は精一杯働いている。でも、養殖などの新しい技術も盛んになってきているためか、今の漁師仕事が上手くいかない。役場に相談しても、もっと頑張りなさいの一言。
この夫婦は互いに、相手のことを想い合う。相手を自分にとっての太陽のように考えている。相手に与えた愛情は、それ以上に大きくなって自分に返って来る。愛の正の連鎖みたいな感じか。
幸せだ。普通なら。
でも、現実は幸せの獲得にまだまだたくさんの要素が必要だ。
金。貧しくても、贅沢しなければ暮らしていけるレベルならば、まだよかったのだろう。この町での格差社会はあまりにも厳し過ぎた。
夫婦は、 議員のように上っ面ではなく、本気で町民の役に立ちたいと祈ってくれているおまわりさんに金の相談に向かう。でも、おまわりさんだって、裕福では無い。余分に渡せるお金は無い。でも、何とかしてあげたいという人の想いに触れただけでも夫婦は一時の安らぎを得る。
しかし、現実はさらに厳しい。 夫婦はもはや生きるため分の食事すら出来ないようになり、体が動けなくなる夫のために、妻は野菜や魚貝を盗む行動にまで追い込まれる。

右側には交番。
若いおまわりさんがいる。 おばあちゃんが亡くなった時に、人の役に立つように言われた影響が強いのだろうか。警官の職を選んだのもそんなことに関係しているようだ。
でも、この町の人の役に立つとは。
違う。そう感じる議員の言動。でも、自分はどうしたらいいのか。
人の太陽になるためにはどうしたらいいのか。
互いに太陽の存在である漁師夫婦の姿。でも、彼にとって、恐らくは太陽だったおばあちゃんはもういない。舞台左後方が高台になっており、そこにあるおばあちゃんの墓でそんな葛藤に苦しむ姿を見せる。そして、 万人のアイドルのような存在である、ミッ○ーの妄想を頭に描きながら、真摯に人を助ける、思いやることを考え始める。
かなり、思い詰めており、混乱しているところもあるみたい。
また、議員という偽善の塊に対する敵対心みたいなものも生まれたのかもしれない。
町民の何でも相談にのる時間を設けて活動すると同時に、人助けの偽装みたいなことにも乗り出す。
深夜にゴミに火をつけて、町民の不安を煽り、その後、自分が深夜も見回りをすることで、そんな放火事件が無くなったという状況を作り出す。安心を獲得するという考えみたいだ。

このゴミに火をつけるという役割を任せられたのが、議員の愛人。
おまわりさんとの出会いは、もうどうしていいのか分からなくなって、海に身を投げようとしたが、交番を訪ねてきた時。 おまわりさんは、錯乱する女性を必死に抱きしめ、安心させている。
実は女性は議員の愛人にまでも至っていない。性の処理道具だ。舞台右奥の田んぼでいつも議員の性欲を処理している。
自分の相手への想いが完全に一方通行でも、女性は議員を想うことをやめない。彼女の心の中のさみしさや苦しみを埋めるためには、そんな男でも必要だったのだろうか。
人を想うことが出来る自分を感じることで、焦燥感を打ち消そうとしていたのか。
議員にとっては、もちろんこの女性は太陽では無い。でも、女性にとってはこの議員は太陽だったのだろうか。とても照らされているようには思えない。でも、最低限生きるための温もりを与えてはいたのかもしれない。
おまわりさんは、そんな女性に、議員との仲を噂で流せば、議員の地位は失落するという脅しをかけて、彼女の協力を得ている。

こんな5人の姿を泥臭く描く中で、色々なことを浮き上がらせていく。
今の社会に通じるような格差、人間とは、愛とは・・・
たくさん頭の中に思いが巡らされ、まとめてなどはとても書けないのだが、一言で記せば生きるとはどういったことなのかを感じられるといったところだろうか。

おかしな感想になるが、途中で火垂るの墓を思い起こす。恐らくは、困窮して満足に食べられず体が弱る夫と野菜を盗んででもそれを食べさせようと必死に明るく振る舞う妻の姿が、脳を刺激したのだろう。
安易な発想だとは思うが、あの作品が悲しくつらく涙が溢れてくるのは、貧乏でセツコが食べられなくて死んでしまうからだけではない。
食べられない、金がないとかだけでなく、自分たちが世の力になっていないという感覚が生きようとしている彼らを死へと向かわせているからつらいのではないだろうか。この作品で言えば、自分たちの太陽を失い、誰もが人を照らすような余裕が無くて太陽になってあげることも出来ず、自分たちが太陽になる術も子供ゆえに持てなかった悲劇が、死に繋がっているように感じる。
それも、別に彼らが悪いわけではない。戦争という巨悪が招いたことであり、また、その悪は全ての人に平等に打撃を与えず、あの兄妹のようにどうしようもないという強烈に打撃を受けた者もいれば、そこまでに至らず、また頑張れば再起の道へと進める程度だった者もいる。
社会としては、戦争という一つの共通の試練が与えられたのに、個々のレベルにまで視点を移すとそこにはあまりにも不平等な結果が引き起こされている。
そんなことに対するどうしもない怒り、じゃあどうしたらいいのかという葛藤が、悲しい怒りとなって涙するように思う。

彼らは子供だったけど、もし、大人だったら何とかなっていたのだろうか。
この作品で社会的な強者の立場にいる議員が、弱者である町民たちに自業自得という言葉を投げかけることを全面否定は出来ないようにも思う。
でも、だったらどうしたらいい。
いっぱいいっぱいになっている世の中。人を思いやる心を忘れる。余裕がない。 焦りと不安。 追い詰められる。数々の矛盾が引き起こる現実。自分が生きている意義。
不幸にして厳しい状況に追い込まれてしまった人たちは、その再起へのスタート地点にすら立てない。せめて、そこに至らせてくれれば、自業自得という言葉も受け入れられるが、それすら許されない過酷さの中でどうしたらいいのか。
震災とか事件とかに巻き込まれたら、それは仕方なかったこととして受け入れられ、ただ生きている中で弱くなってしまったら、それは自分が悪いで済まされてしまうのか。ずっと勝者でいることが生きることで求められるのか。
頭の中は、そんな叫びでいっぱいになる。
明確に人を分けることなど、もちろん出来ないことだとは思うが、強者と弱者とするなら、今の私は物理的にも、精神的にも強者よりなのだろう。
そんな叫びをうるさいと吐き捨てようとする面があることに気付く。でも、同時に受け入れて、何かを投げかけてあげたい。そんな人たちのちょっとした光になれたらいいなあとも思う。これは、きっと、昔のどこかで物理的にはまあまあ恵まれた生活をしてきているのであまり経験が無いが、精神的には弱者となった時に与えられた光を覚えているのだろう。あの時、救われた人の思いやり。そのかけがえない愛おしい気持ちを無くしてしまうことは悲しいことだ。かけらとしてだけど、自分の心に残っている人を思いやるべき気持ちは、大切に膨らませなくてはいけないという気持ちになる。

山での突然の雨の中、樹の穴で雨宿りするカラス。目をつむっているものもいれば、閉じているものもいる。そんな漁師の妻が見た夢。
体にしたたる水。そんな中でじっと前を見据えるカラスの姿。社会生活の中で降りかかる不条理や困窮。その中でも生きることを辞めない芯の強さだろうか。
この作品でも、弱者たちは自ら命を絶つ行動には決して出ていない。錯乱してそれを考えても、目は生きることを力強く感じさせる。
強い。弱者だけど強い。
最後に議員は自殺するという結末を迎える。追い詰められた漁師夫婦が社会に苦境を訴えることで議員としての生命を抹殺されることになってしまったから。
これまで逆境を経験して来なかった議員。山で雨に会っても、きっと傘が無ければ雨をしのげない人なのだろう。突然、降りかかってきた雨に耐え切れず、命を絶ってしまった。
人のメンタルは弱い。だから、鍛えないといけないのかもしれない。
弱者たちはどういう状況であれど、死ななかった。 ここに大きな力強さと希望を見出すしかないと思うのだが。

自殺した議員の姿を見て、愛人だった女性は最後に偽善の報いのような言葉を投げかける。
最後の最後まで、この愛人は強かったなあと思うと同時に、弱者の強さ、優しさを感じ、心が締め付けられる。
たぶん、どう捉えるかによると思うのだが、その言葉は自殺した議員ではなく、自分へ投げかけたのだろうと思う。
悪が滅びた。やったあ、心スッキリでもいいように思う。
でも、きっと弱者は復讐をして喜びなどしない。
一つは、そんな自分たちの心を脅かす存在は無数にいることを知っているから。
そして、その人の死に至るまでの苦しみを誰よりも知っているから、それすら受け止めて、自分に還元する。
そんな人間の強さが尊く美しく感じる。
と同時に、何か悔しく切ない気持ちにもなってしまう。

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