娘たちのうたわない歌 re:pray【坂本企画】140126
2014年01月26日 カフェ+ギャラリー can tutku (90分)
昨年拝見した作品の再演。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/130921-3fdb.html)
2回観たら、より理解できるようになるかなと思ったけど、また新たに考えることが出てきて、どんどん複雑になってしまったような・・・
難しい作品である。
答えは無いのだろうが、誰もが答えを導き出したいと祈る問題。
そんなことを考える先に、自分なりの希望を見出せればいいのかなと思う。
感想は上記リンク先を参照。
大きくは変わらない。
読み返してみたが、何でそんなこと思ったのか疑問が生じるところもあるが、まあまあ感じたことが書けているような気がする。
二点、新たに思ったこと。
一つは、前の時もこんなに凄かったかな。
4人の女優さんの存在感。
ちょっと圧倒されるぐらいの迫力で、ビビった。
息遣いというのかな。発せられる言葉一つ一つが響いてくる。
かつ、美しい。もちろん、容姿もだけど、そのたたずまいが。
最後に全てを受け止めて、争いの場へと向かうような姿は、凛とした覚悟に溢れており、痺れた。
もう一つは、全然異なる考えを持っていても、どこか芯が同じで家族のような無条件に想い合える存在の必要性だろうか。
ノラはずっと娘たちに付いていく。
これが、彼女が失っている家族への想いからきているような気がする。
かつては娘だったノラ。そこから逃げ出して、文字どおり、ノラとなった。
その失ったものを、同じ娘たちとの時間の中でいつしか取り戻せることを祈りながら、娘たちが変貌しても信じて一緒にいたように思う。
どのように変わっても、信じ続けることが出来るのが家族だと思うから。
娘たちは最初は私たちはといった形で言葉を放つ。これが変貌した後半は私はに変わる。
この時点で、娘たちは、たちではなく単なる娘という個人の集まりとなる。
個人が生まれれば、その考えが個々で異なる者が生まれる。これが争いを生み出す正体のような感覚を得る。
私は、私はと言っていれば、私じゃない者は私とは違うので、そこに境界線が出来て争いの伏線が出来上がるように感じる。
娘たちは歌を知らない。でも、彼女たちは食事の際に、缶を同じリズムで鳴らして、音を刻む。決まった行動だから、娘たちの奏でる音は同一だ。
これが歌だと、異なってくるような気がする。
そのメロディー、歌い方に個性が生まれ、個々の違いが生じるように思う。
個性を無くす、個々の人たちの違いを無くすことが争いを避けると言ってるのではない。
その個々の歌を否定するのではなく、その生まれた個々の歌をみんなで綺麗にハーモナイズすればいいのではないかと思うのだ。
結局、互いに認め合う心。全面否定しないこと。これが争いを無くすのではないだろうか。
娘たちという言葉が、ロボットのように全て同一なものとしての意味合いからではなく、個々の娘として、互いに分かり合える人たちの集まりという意味合いで使われるようになり、そんな娘たちをみんなが認めるような世界が出来れば、争いは消えるように思う。
娘たちに違いを無くすことで争いの無い世を創ろうと願った人たちの試みは、本能的なのか、宇宙の法則みたいなものなのか、自然に生まれてきた違いによって、逆に争いを生み出すかのような結果を招いたようである。
それならば、違うことを封じ込めるのではなく、違うことを融合させるような精神が大切なのではないかと感じる。
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