ふたり手【手のひらに星】130901
2013年09月01日 梅田カラビンカ OZC GALLERY
40分ぐらいの二作品。
両方とも、いまひとつ、いやさっぱり分からない。
とても抽象的。
何となくだが共通して感じるのは、自分を表現することで見詰める。
これまでの自分からの脱却、新しい自分の受け入れへの覚悟、決意。
人生を一作品として捉えて、そこに生きる自分をどう活躍させるかを悩んでいるような人の姿が浮き上がる。
・あいどく ~夜さり来い、短い夏の一夜さに~
夜の校舎のある教室。
ライターを手にし、何かに火をつけようと思い詰めている女性。
やって来る巡回の警備員の男。
女性は、学生時代にクラスのアイドルだった人。
何でも数式で答えを出して片づけるような、少し変わっていたが、みんなから慕われる人だった。
それに比べて、自分は・・・
男は、今、ビデオ片手に映画を撮影しようとしている。
女性は自分を撮影しろと言い出す。
女性が火をつけようとしていたのは、大きな玉ねぎ。
プラズマとかではなく、しっかりした形をしている。
そんな二人は・・・
何のことやらさっぱり。
しかも、なぜか、全て土佐弁で行われる。
二人のやり取りの中で、男はとにかくつまらん学生時代を過ごし、そのままの流れで今も生きているようである。いわゆる凡人の退屈さ。
女は男が思っているほど、華やかしい学生生活では無かったみたいで、何でも数式で割り切ってしまうような、これまた意外性が無いと言うかつまらない生き方をしているようだ。こちらは優等生の憂いある退屈さと言ったところか。
女はそんなくだらなさに気付いたのだろうか。
科学の考えだけでは、割り切れない訳の分からない玉ねぎを見るようになってしまい、それをプラズマに見立てて燃やしてしまおうとしているみたいである。凝り固まった自分の考えを爆発させて、自由自在に動き回る分子のようにしてしまう感じだろうか。
男は、そんな女とのやり取りの中で、あの憧れの女性ですら、実はつまらない人生に悩み、そこから打破しようとしていることに気付き、自分も弾けてみようと思ったのか。
それが自分の表現に繋がると考えたのか。
最後、2人は自分たちを捕えている鎖のようなものを断ち切り、自由自在に散乱するために、その玉ねぎを燃やそうとする。
女にとっては、これまでの凝り固まった生き方からの脱却、男にとっては自分のやりたいことを好きなようにして、それを映像として表現する創作活動の始まりのように感じる。
・よくできた器
記者の女。
母親と姉と過ごした家を出て働き始める。
父親は訳あっていない。刑務所にいったのだとか。
男なんかに負けない。男性社会に歪んだ社会でも強く生きていく。
そんな気持ちが社会派記事を求める。ケーキや、レストラン特集は嫌。
でも、上司はそんな気持ちを理解してくれず、嫌味ばかり。
そんな中、ある怪しげなサークルを見つけた。
本当になってみる部。
今のこの社会で、本当になりたい自分を探し出し、それを演じる。
早速、取材に向かうが・・・
これも、何のことやらさっぱり。
自分探しの話ではあるだろう。
家庭環境の中で、別にそんなつもりは無かったのだろうが、母に決めつけられてしまった、歪んだ社会を憎み、男に負けないという形にはまった生き方。
彼女は、人生という作品の中で、そんな設定の役になってしまったようである。
そんな中で、出会った本当になってみる部。
それは自己が揺らいでいた彼女にとって、本当の自分が見つかるかも、新しい設定の自分役が生まれるかもと救いを求めたのだろうか。
でも、そこは、猫になってみたり、無邪気な子供になってるだけのサークル。
それも、二人きりで互いに認め合っているだけの。
猫にはなれるけど、生態を知らない象とかにはなれない。
決して、自分たちの殻を破って、新しい自分を創り出すようなところでは無かった。
単なる逃避。
演劇なのか。
でも、演劇は新しい自分を創り出すのではないのか。
自分を表現する時に、それは本当の自分なのか。
様々な自分を演じる。これは、決められた生き方しか出来ない自分を変革する第一歩かもしれない。
作品のラストは、人生の中で、これまでとは異なる役も自分として受け止め、頑張ってみようとする女性の姿が描かれているようであった。
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