2013年01月25日 アイホール
観劇して何となく思い出した二つの作品。
一つは、もうだいぶ前のPM/飛ぶ教室の会えないで帰った月夜。
この頃はまだブログを書いていなかったので、頭の中の記憶しかない。
静かで厳粛な空気の中、死者を慈しむ残された者たち。同時に死者の残された人たちへの、生きて欲しいという祈りを感じさせる優しい作品でした。
今回拝見した作品中の、生死の間にいる者、それを見守る者たちの、互いに思いやった優しい雰囲気が記憶を思い起こさせたのでしょう。
もう一つは、昨年のスイス銀行のラブソングでも書いてみる(ヒマだから)。
(http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/120514-5d4b.html)
これはそのまま病院の屋上を舞台に、死を意識させながら、残される者、去り逝く者の姿を描いた作品。記憶がよみがえってくるのは当然かもしれません。
病院で死んでいくこと、その時、残される家族、友達、恋人たちが向き合うべきことを真剣に考えさせられる点が似たイメージを持ちました。
前者は静かで厳粛な会話の中、後者は笑いに包まれた楽しいやり取りの中で、そんな死を見つめる結末へと話をもっていきます。
この作品は・・・
何でしょうか。桃園会、深津篤史さんの作・演ですから、何やら不思議な世界には連れて行かれます。
お前、誰なのみたいな女性も登場したり、詩的な描写も多用され、いつもながらの困惑を避けることは出来ません。
その中で、感じることは、やっぱり前日拝見したblue filmと同じく美しい世界の中でといった書き方になりますね。
さして芸術センスも無き人が美しいだなんて、死を描いているのに美しいというのは死を美化した冒涜かみたいなことを思わないでもないですが、そう感じるものは仕方ありません。
死を描くことで、同時に生も描いているからでしょうか。もっと言えば、生の人を描いているからでしょうか。
いずれはたどり着く場所とはいえ、その死が目の前に迫って来ていることを感じる人たちの不安に、その死とはまだ遠く離れた場所にいながらも、家族・友人・恋人の死を感じることで、その死を同じように目の前に感じてしまう生きている人のとまどい。
病院という、生と死が混在する特殊な空間において、見えるはるか遠い景色、時折、聞こえてくる鈴のような澄んだ音。
そんな物が全て美しい描写として映ります。
死を通じて、今、生きている世界の尊さを伝えようとしてるのでしょうか。
今、こうして、仕事のかたわら、ブログを書いていますが、こういった深く考えさせられる難解作品の感想はなかなか筆が進みません。
さっきから、ここまでの文章を書くまでにも、何度も外に出て、景色を見ながらタバコを一服しています。
いつまで、こんな気持ちが続くかは分かりません。
外の景色がとても澄んでいて美しい世界だなあと思うのです。