blue film【桃園会】130124
2013年01月24日 アイホール
1年振りの観劇。
(昨年観劇時の感想:http://ksaisei.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/blue-film120127.html)
一度書いた文章を消すのが嫌なので、知らなかったとはいえ、失礼なことを書いてご指摘を受けた経緯も一緒に載っています。反省として、桃園会は、観れば悩まされるのを分かっていながら、観劇最優先候補としていますので、そこはご容赦のほどを。
今回の観劇前に、自分の昨年の感想を読み返してみたが、混乱したことはよく覚えているのだが、具体的な内容はほとんど覚えていない。
ただ、美しい鎮魂歌のようだった印象だけが強く残っている。
今回、拝見して、恐らく、それは色と音をイメージさせて殺風景な舞台に、あの阪神大震災の時の像を甦らせているからなのだろうなと。
青空、ブルーシートで覆われていく被災地、暁のほのかな暗闇、夕暮れの赤、その後に訪れる暗闇、火災に包まれる被災地、砂利の様なガレキ、散乱するガラス片、返ってこない叫び声・・・
そして、さほど混乱する必要もなかっただろうに。
開演50分で、地震という言葉がはっきり出てくる。
それまでは、主人公の女性の回想や童話のファンタジーの世界が描かれている。
ここでの言葉や描写が、震災をはっきりイメージさせる後半の隠喩となっていたことに、後から気付くだけである。
コウモリ、理科の先生の難しげな視点の違いの話、名前をみんな覚えていないのに、一人だけ名前を覚えている幼馴染の女の子の存在・・・
それが分かり始めてから、舞台は主人公が記憶と向き合っていく場となる。
震災の風景・記憶が甦って美しく感じるというのもおかしな話だが、そう感じた気持ちは本当だ。
これはファンタジーのような話を絡ましているが、別に美化したような描き方をしているわけでは決してない。むしろ、言葉こそ柔らかいが、あの時の現実を思い起こさせるには十分過ぎる表現がなされているところがある。
姉を亡くした喪服を着た兄弟が出てきて、不思議な世界の中で姉と一緒に父の葬式帰りにもらった寿司を食べるシーン。兄弟は紙袋から寿司を取り出して食べ始める。姉もカバンから寿司を取り出そうとするが、なぜか弁当箱が出てくる。その弁当箱を開けて出てきたのは砂利。
これだけのシーンだが、あの日、何が起こったかを強烈な描き方をしているように感じる。
あ~、これは・・・と衝撃を受けた。
時間の経過だろうか。
主人公と一緒に薄れゆく記憶と向き合いながら、それに目を背けることなく見つめ直していく。こんなことが、阪神大震災から、初演では7年後、今はもう18年後になったからこそ出来ることなのかもしれない。
主人公の女性は、最後に、そんな記憶の断片と向き合い、今、生きている自分を凛とした姿で語る。
一緒にもっと遊びたかったな、同窓会でまた出会いたかったな、生きていて欲しかったな。悲しくも厳しい現実の中で、今、自分は生きている。その視線は、未来に向かっている。
あの日から時が止まってしまった、暁のぼんやりした暗闇から、日が昇ることも無く、青空を見ることも出来なくなった人たち。そんな人たちのことを胸に、自分の時間は未来へと向かう。ブルーシートに覆われた青を想いながらも、青空を見つめる。
そんな悲しみを背負った中での希望を見せる主人公の姿が強く美しいなと思ったのかもしれない。
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