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2012年6月18日 (月)

あやかし【遊劇体】120618

2012年06月18日 ウィングフィールド

死を想って、それと向き合ったからこそ、生を感じる話。
これまでの人生で死と出会うことは少なからずありますね。でも、それを想うなんてことは日常の中ではなかなかしないことかもしれません。それこそ、その死が自分自身に降りかかってこない限り。
だからかは分かりませんが、生という意識が薄れてしまっている。

震災をはじめ、そんな死がすぐそばにある時だからこそ、出来上がった話かも知れません。
生をテーマにする限り、必ず死も描かないといけないので、哀しみを感じる話です。
でも、そこに温かみ、優しさを同時に感じれる作品でもあります。
ただ、その描き方は非常に厳しいです。死の現実を思いっきり突きつけています。

三話に分かれているのですが、これは幕みたいなイメージなので一つの話と思っていいのでしょう。
すぐに分かることもありますし、最後になってようやくみたいなこともあります。そして、かなり集中して観たつもりですが、私はスルーしてしまったこともたくさんあると思います。
多分、話はこういう感じです。

私は病院に入院中です。最初から患者用寝巻っぽい姿なので何となく感じますし、途中に同じ姿の人が登場するので間違いないでしょう。
レモン数百個分のビタミンCが入った点滴。三話目で出てきます。恐らく、高濃度ビタミンC点滴療法です。つまり疾患はガンでしょう。演じる村尾オサムさんを失礼ながら存じないので、普段からそうなのかは分かりませんがスキンヘッド姿もそれを意識させます。
安易な書き方かとは思いますが、生と死の間をさまよう。否が応にも、死を想うことが出来る人なのだと思います。

そんな私は、ある春先にテレビで、あの3.11の映像を観ます。
私とは遠く離れた場所で起こったこと。でも、その画面から多くの死を見つめることになったのでしょう。
病室でまどろむ中、私は阪神大震災に被災した時のことを思い起こします。
夢か現実か。私は気付けば、被災した家の居間にいます。
そこに、もう忘れてしまっていた死者、死を形どる物が訪ねてきます。

舞台は、能を観たことないのでよく分かりませんが、恐らくはそんな作りの舞台になっています。そして、役者さん方の動きも能をイメージさせるものになっています。
四角い部屋の四つの柱。一つにはユリが飾られています。何か死者を慈しむみたいな花言葉でもあるのかなと思って調べましたが、それは無いみたいです。どういう意味なのかは分かりません。
その四点の柱に照明装置。全部、青色系の光が出るようになっているみたいでした。
恐らくは、この四角の部屋は死者だけがやってこれる場所をイメージさせているのだと思います。

一話では叔母から買ってもらった怪獣のおもちゃ、幼き頃に家を出て行ってしまった父の靴がやってきます。
懐かしい昔の思い出を回想するとともに、物に宿る生を描いているみたいです。この物たちと関連する者はもうこの世にはいないという捉え方なのでしょうか。
叔母は後の話で、足が不自由だったみたいで震災とは関係なく、トイレで倒れて不慮の死を迎えたことが話されます。父はどうなのかは知りませんが、恐らくはそういうことでしょう。
その人とつながる物が訪ねてきたことで、その物を想うと同時に、それに由来する死を見つめている感じです。

二話ではヤマダさんとその恋人が訪ねてきます。ヤマダさんは私と同じ寝間着姿なので、多分、病室で出会った人でこの方は以前に死を迎えたのでしょう。恋人がなぜ一緒にやってきているのかがよく分からないのですが、ここにやって来たということはそういうことなのでしょう。
ヤマダさんも恋人も神様を連れています。そして、リッケルト通りとかいうところに行こうとしているみたいです。この通り名は何なのか分かりません。神様は、この死の世界ではそうなっているみたいです。全ての者に神が宿るみたいな。
私もそこに向かいますが、ここで、私には猫が神様として付きます。猫は猫なので、神様ではありません。とりあえずの代理みたいな感じです。
ここで、私は死の世界に完全に踏み込んでいないことに気付きます。私には神様がまだいませんから。夢うつつの中でここにさまよい込んでしまったということでしょう。だから、死を想う私は死者と会話することで死を見つめ、そして生へと戻っていくはずです。

三話は私の今の現実がおぼろげながら描かれているようです。
あの日、揺れた病室での出来事なども描写されています。
まだ、あの死者が訪ねてくる夢の世界なのか、現実世界なのかすごくあいまいなところにいるみたいです。
横には妻がいています。夢の世界では妻のあみものという姿ですが。
今は夏ですからね。あみものはおかしいですね。妻はきっと冬を見ているのですね。私は冬になったら、このあみものを身に纏うのです。先を見ている以上、この病室は、先ほどの死者が訪ねてくる場所ではありません。生ある者が存在する場ということでしょう。あの死者が訪れる居間と病室が同一舞台になっていますが、そこは明確に違うことを描いているようです。
漠然と感じるこの生の優しい描き方がすごく感動して泣きそうになりました。うまい具合に暗転があったのでうまく涙はぬぐえましたが。

最後のカーテンコールも一つの作品になっているみたいでした。
私以外は、死の役をされた方ばかりなので、全員はしごを上って退場されます。
私は生きていますから、退場は客席側に歩いてこられます。
死を想い、夢の中で死者や死んだ物との会話をしたから、生の尊さがしっかり身に刻まれたのでしょうか。
私があちらの世界から、私たちが生きるこちらの世界にまた入り込んできてくれたように感じます。
死を真摯に見つめた者が、生への強い想いを今の私たちに伝えているような気がします。

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コメント

とても詳細な感想をありがとうございます。
いくつか注釈を差し上げます。
闘病中にあの世とこの世をさまよいながら、過去の思い出の人たちと、未来の約束の人たちに出会う構成で描かれた3本は、それぞれに「私」の居場所が変わっていて、1本目は阪神大震災の夜、2本目は舟に乗りますので賽の河原でしょうか、3本目は幻想の中のブランコに乗っています。
「ヤマダ」は未来の「私」です。
「百合」は夏目漱石の「夢十夜」の第一話に登場する物語です。
「ね、私はもう死にます」と言って死んだ女が、百年のちに百合の花となって会いに来る話です。
生きることを諦めた「私」が発した言葉です。
時間が許すならば、是非もう一度ご覧下さい。
素晴らしい作品です。

投稿: ツカモトオサム | 2012年6月19日 (火) 20時07分

>ツカモトオサムさん

コメントありがとうございます。

もう一度観に伺いました。

う~ん、時間軸が未来側にまでいってるとは・・・
でも、よくよく見れば確かにそうですね。

2回拝見して、より分からなくなったところも逆に出てきましたが、それはそれでいいのかなと。
国語じゃありませんからね(゚ー゚)

やっぱり、最後は美しいなあと思いました。別に死を美化してるとかではなく、人間ってこうだなあなんてことを感じました。

私は観ますよ。また、次回。
経験浅いから、まだまだ素晴らしき世界を見せてもらわないと
。・・・と思ってます。

投稿: SAISEI | 2012年6月21日 (木) 16時33分

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