それからの遠い国【劇団太陽族】120608
2012年06月08日 アイホール
オウム真理教事件をベースにして、その後に日本で起こる数々の問題の中で生きる人達を描いた作品。
希望を失ってしまいそうな生きづらい世の中で、生きていくことの意味合いを問うような話。
登場人物の姿を見つめながら、同時に今を生きる私たち自身も見つめ直すことができる。
この劇団の作風だと思うのだが、いつもそれでも生きていかなければならない人の強い姿で終わらせている。
そうありたいのは当たり前の話で、そのためにどう考えたらいいのかという自分なりの答えを見出さなくてはいけないみたい。
一応、そんなことを考えながら感想を書いてみた。
(以下、少しネタバレしていますが、筋とかは新聞記事に載っているレベルのことしか書いていないので白字にはしません。公演は日曜日まで)
舞台は奥にガラクタを積み上げたオブジェみたいなもの。前面にど~んと汚い軽トラ。
右と左にあるプレハブみたいな建物を想像させる出入り口がある。
売れるか売れないかよく分からないリサイクルショップの店舗兼住処をそれだけでイメージさせるものとなっている。
偏見のある書き方ではあるが、弱者切り捨てが当たり前の風潮になっている今を生きづらくも生きている人の姿を描くことを思わせる。
作品はもう16年前に公演された「ここからは遠い国」の続編となっているようである。その時はオウム真理教を脱退した若者を描いた作品だったらしい。
あれから、その若者も歳をとって、いまや40代半ば。ちょうど、今の自分と重ね合わせられる。
それもそうだろう。就職して社会に出た私は24歳。当時、富士宮に住んでいた。
週末になれば馬券を買うか、趣味のフライフィッシングをしていたので、甲府や長野に出向く。そのたびに、ヘッドギアを付けて何やら修行に勤しむ信者の姿を見ながら、警察の検問を受けて車を走らせていたのである。
そんな時代から、もう10年以上の時が経った。
当時の阪神大震災でこの先、これ以上の大きな災害が起こるなんてどこか現実離れしていたが、しっかりと東日本大震災が起こっている。津波はあの時以上の無残な光景を生み出し、付随して起こった原発事故は、日本の将来に絶望をいまだ与え続けている。
バブルがはじけ、一挙に不景気に陥った社会は、生活苦や若者の就職難を生み出すが、高度成長期を経験した国民の多くは、その時以上の不景気にみまわれるとは予想していなかったに違いない。一向に改善されない経済は、徐々にあきらめムードを醸し出す。
何かを変えれば、きっとよくなる。今のままではダメですよ。そんな言葉を発する人をヒーロー視して救いを求める。
不安の中で生きることへの防御本能なのだろうか。自分が大丈夫だと安心したいがためのように、マイノリティーを糾弾し、共通の敵を作りたがる。みんなが同じ方向向かないと、現状打破できないですよということを大義名分にして。
そんな時代に生まれた新しい命は、どこか元気がなく、遠い目で過去を見ている私たちを観て、まあこんなものですよ、あなたたちが将来を見てないから私たちも見れないですねと思っているのだろうか。
この作品ではそんなことを感じさせる話となっている。
16年前にオウム真理教を脱退した主人公の男は、父が経営していた工務店も不景気の煽りを受けて潰し、今では震災地のガラクタを売りさばく仕事をしている。そんな、父ももう亡くなっている。
結婚もしていない。弁当屋で働く次女と演劇に身を寄せる三女とともに暮らしている。
長女は結婚し、父が亡くなる直前には孫も見せることが出来ている。そんな孫はもう高校生になろうとしている。
今の世の中、長女の旦那もそれほどの稼ぎがあるわけではないのだろう。これからの生活を考えて、このリサイクルショップの土地をめぐる遺産相続問題が引き起こる。
罪滅ぼしなのか、男は未だに家を訪ねてくる逃亡中の元信者にお金を工面している。
そんな前に進めず苦悩する家族の姿を、三女の絡みでここに出入りする演劇部の人達とともに、シェークスピアのテンペストやハムレット、チェーホフの三人姉妹のセリフを当てはめた劇中劇を盛り込みながら話を展開している。
演劇部が出てくれば、劇中劇が入るんだろうななんてことは、否が応にも想像してしまうのだが、こんな状況にピタリと当てはめたセリフをうまく使っての入れ込み方は非常に面白かった。
それにしても、テンペストなんかは調べたら初演は1600年代である。その頃に発せられた言葉が、21世紀の今でも違和感なく世の現況に当てはまることがすごい。天才シェークスピアと言っても、やはり作品を創る時は、その時の今を考えたりしながら創っていただろう。ということは、あの時と今は、潜在的にはそれほど変わっていないのかな。国も時代も異なるが、どこかに根底となる共通の概念があるのかもしれない。そう思えば、まだまだ今も終わりじゃないな。400年以上、その発せられた言葉が生き残ってるんだから。色々とあるけど、きっとやっていけるはずだ。
ネットの普及なんかで人とのつながりが失われつつあるなんてことはよく言われるが、この作品を観ていると、つながりが無くなっているどころか、悪いつながりを形成する社会になっている気がした。0ではなく、マイナスみたいな。
どうしようもなく絶望を感じながらも日々それはそれで生きている人の姿がそうさせているような気もする。
家族のつながりをはじめ、人との関わりに余裕が無くなってきているのだろうか。自分のことで精一杯。
そこで止まればまだいいが、あなたは精一杯なのに、そうじゃなさそうな人もいるみたいだよと誰かに煽られているような気がする。この作品では、親戚のおばちゃんみたいな感じに。
少し話せば、お互い大変だもんねですむのに、何を恐れているのか互いに自分の姿を見せようとしないから、交流が図れず、つながりを断つのではなく、そこに嫌なつながりを作り上げているように感じる。
煽る人は必ず変えなくちゃと言うね。
今がダメなんだから変えることが善。変えない=とどまるみたいな方程式だとそれはそうだろう。それが大義名分。でも、本当にそうだろうか。変えなくても進んでいる。その結果をきちんと見てから言ってるかな。
あせって、我慢できずに、その結果も見ずに、とりあえず変えることで安心する。生きづらい世の中になったから変える。本当は、あの1995年以前の多くの人が特に問題を感じなかった時こそ、変えなくてはいけなかったのだはないだろうか。
亡くなった父が出てきて、発する言葉。辛抱して生きろという言葉は、我慢しろとか妥協しろとかじゃなくて、私は今を今として生き抜けというとても厳しいけど、ネガティブなことを微塵も感じない力強い言葉に聞こえるのだが。
主人公の男は、いまだにオウム真理教に入信していたことが人生の中で残る。それは周囲の家族も同じく。オウムは少々いき過ぎたところはあるにしても、人生の中でマイノリティー側の選択をしてしまうことはあるだろう。それがこんな話みたいに尾を引くこともあるでしょう。現実問題、周囲からの迫害は避けれまい。でも、戻れないしね。それをマイナスとしない世の中なんていいなと思うけど、なかなか難しい。だったら、自分がマイナスだと思わないで生きていくしかない。自分で選んだ道だけど、いっぱい失敗しちゃったなあなんてこともあると思うけど、本当に難しいけどそれを受け入れることしかないでしょう。
失敗したことを不幸だと思っていれば、もう二度と幸せと思える日は来ない。そんな不幸を覆うような気持ちが本当の幸せを生み出すように思う。
同時にそれが生きていくことなのかな。全員が全員、迫害するわけでもないし、家族や友達、周囲の人にちょっと助けてもらったりしながら、生きていく。生きるってそんなことだと思う。
これからどうなるか不安だし、元に戻れないとはいえ、失敗したなあなんてこともいっぱいあるし。生活に困りはしてないけど、金はそんなに無いし。
自分の考えを貫けば、敵も出てくるし、嫌な思いもするし。自分を守るために、他人を傷つける嫌な自分がひょこっと顔を出して来る時もあるし。
もういっぱい、しんどいことがある。絶望は言い過ぎにしても、まあ希望なんてことは大きくは感じない。
でも、ちょっと自分自身や周囲を見つめれば、たくさん素敵な物が転がっている。だから辛抱できる。
辛抱して、しっかり生きていく自信あるよ。
・・・といった気持ちに少しはなれたかな。
あと、最後に。
遺産相続問題で揉めがピークに達した時に、今どきの若者風の孫がガイガーカウンターを人にかざして、その汚染を測ろうとするシーンがあるのだが、最高のブラックジョークだね。
最高に黒い。あのユーモアセンスと、絶妙のタイミングでやった役者さんに拍手。米田嶺さん。
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