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2012年5月10日 (木)

C.T.T. Osaka Trial No.12【C.T.T.大阪事務局】120509

2012年05月09日 ウィングフィールド

初めて知りましたが、30分以内の作品を2~3団体集めて、随時公演する試演会のようです。合評会という客も交えた作品に関する議論の場も設けられています。
今回は、プラズマみかん、手のひらに星、Pan///の三団体。

最初は手のひらに星、「だれかのことを強く思ってみたかった」。
角田光代さんの同タイトルの短編集小説が原作のようで、その中から3つを抜き出して描いた作品のようです。
役者さんは3人。1人が語り、残りの2人が心情描写といった感じでしょうか。
何か消えてしまいそうな人たちが、これまた消えてしまいそうな空虚な日常の思い出を引っ張り出してきたかのように語られています。作品全体に感じる透明感ってやつですね。その引き出された思い出たちが、その人の生きてきた記憶として見えてきて、最初に感じる消えそうな雰囲気から、人としての形をしっかりと浮かび上がらすようなイメージです。透明な人たちの形が徐々に浮き上がってくるような印象ですかね。

少し違いますが、言えばリーディングのような形態です。
で、これが正直、非常にきつかった。
色々と観劇をしていますが、もちろん楽しく観るのが最大の目的ですが、観るテクニックみたいなものも身につけたいと思っています。
ただケラケラ笑いながら観ていればそれで大丈夫な作品もありますが、やはり演劇は奥深く、色々と考えて見ないとせっかくの名作を何にも味わえないこともたくさん経験しています。
リーディングの場合は、話を追って全てを理解しようと思うと大失敗するいうのが私の乏しい経験からの自論。読書をしているのとはやはり全然違います。読んでいるのを聞くのですから、素直に聞いているだけで入ってくる言葉を信じて、ストーリーを把握しようとしないようにするのがコツです。眠ってしまうリスクを覚悟して、その声だけに集中するために目をつぶったりする時もあります。そして、本当に眠ることも・・・

この作品は上述したように単なるリーディング作品ではなく、心情描写の表現者が付属しています。そのため、そちらに目はいき、耳はリーディングしている人にいくという状況に基本的になります。
心情描写というのがくせもので、情景描写ならば、それを風景のように見ながら聞くのに集中できる。でも、動きは何かの具体的な行動なのですが、情景としてではなく、その時の心情を表現しているようなのです。
さらに言うと、合評会で分かりましたが、必ずしもその時の心情ではなく、作品全体から得られる感情をランダムに描いているところがあったようです。
私にとっては不運なことに、この動きがもっと意味不明のもので、いかにも幻想的なものだったら、見ないということでごまかせもしたのですが、ごく日常に行われる動きなので、どうしても見て耳から入る言葉とリンクさせようとしてしまう。それがうまくいかない。
もう無理だと思った時点で、目をつぶってしまった方が、作り手側には申し訳ないですが、単なるリーディング作品に勝手に変えてしまってもう少し何か分かったのかもしれません。
二兎追うものは・・・ではないですが、正直、混乱したという記憶しか残っていません。

ただ、今、思うことはその混乱した頭の中でも残っている言葉は、本物の言葉として、恐らくは心に思いっきり突き刺さるものだったと思っていいのかもしれません。
食べたものより、食べてないもの。会えた人より、会えなかった人。・・・
そんな経験していないものの方が記憶に残り、今の自分を形成している。
なるほどなあと思いますね。不思議な話ですがそうかもしれません。
得ることが出来ずに、とりこぼしてしまったと思っているものも、ちゃんと今の自分に残っている。
何か気が楽になってほっとするような気分になります。

この記事を書くにあたって、すこし角田光代さんのこの作品を調べてみました。
本の中には16本の短編と100点近くの写真から構成されているようです。
何となく、舞台ではこういう形の作品になるのが理解できるような気もします。
ある話を舞台化したのではなく、本自体を舞台化したような感じでしょうか。
個々の話やシーンを理解して、それを積み上げて全体を把握するのではなく、一つの大きなまとまりとして作品を見るということが必要なのかもしれません。
観る力無き者には少し厳しく、観る人を選ぶところがあるかな。
とても繊細な作品ですが、そのふるいの目は粗いらしく、私はそこから落ちてしまったようです。

何か、長くなってしまった。
あと、簡潔に。

二つ目がPan///、「フミエノフミエ」。
作・演の伊藤拓さんがひたすら、ご自分の昨年亡くなった祖母について語る30分。
当日チラシにもそのような作品だということは記されており、まあ、視点は異なりますが、劇場版エンディングノートみたいな感じかなと。
最初に舞台奥にスクリーンが出てきて、映像と合わせた形で行われるのかと思ったのでなおのことそう思いましたが、実際は映像は全く出てこず。
映像をずっと残したことは語られていたので、意識はされている演出なのでしょうが。

実際は最初にこんな作品だと話した上で、なぜか女優さんをおんぶして、以後はずっと語ります。
合評会で質問に答えていましたが、これは負担をかけるという演出みたいです。
いまひとつ分からないのは負担をかけるということが、どういう効果を生み出すのかな。
確かにどんどんつらそうになるので、目は離せなくはなりますが、それだけではないでしょう。よく見かける演出ですが、本当のところはどういう意味合いなのかはあまり考えたことがありませんでした。
自戒の念だとか、もう死んでしまっているので苦しみという形でしか気持ちを同調させられないとか、つらい思いをすれば何か死んだ祖母にまた会えるような気がするとか、色々と思いめぐらせましたが、本当のところは分かりません。

本当に祖母のことを語るだけですから、誰のために創った作品なのか、オナニーを見せるような形でいいのかなど、その語りの中でも話されていました。
色々な考えはあるでしょうが、こういう形の方が、実は心の奥底に潜む本当の想いが言葉として出てくるのかなと感じます。出てきている言葉は、何も飾らないそのままの気持ちになるような気がします。
あとは、これを見て私たち客はどうするんだということですが、この作品を観て、この方の祖母が舞台に生き返ったように浮き上がって見えるならそれでいいのではないでしょうかね。舞台で
この方がまた祖母と会ったならば、それはそれで喜ばしいことです。
作品を通じて、必ずしも客が幸せにならなくても、誰かが幸せになるなら、それもOKかなと。その姿を見たら、まあこちらも幸せな気持ちにはなりますし。
だから、この作品を創り、こうして発表する過程で、この方が祖母と向き合って、どうだったのかは作品の中で語って欲しいところです。まあ、それが最後の無言のシーンにつながっているのかもしれませんが。

ただ、こういった自分とオーバーラップさせれる話で、例えば私は父を2年前に亡くしていますが、その父のことを思い起こすなんてことは観劇しているとよくあります。でも、この形態、少なくとも今回の作品では、それが全く出来ませんでした。
この作品を観ることで、私の頭の中で父と出会うなんてことが出来そうな気がするのですが、全くそんな気になれません。
そういう意味では本当にオナニーなのかもしれません。となると、私が唯一、この作品を評価する手立ては、この方がどれだけ、この作品を創って満足しているのかになります。
それが分かるエンドならば、よかったねと私も満足できたかもしれません。

最後がプラズマみかん、「プラズマみかんの種まき始めました。「プリンのようなあの娘をすくって」」。
奥様と使用人2人。
使用人たちにとって奥様は絶対。奥様のおかげで私たちは生きられている。私たちは地を這って生きる人。奥様はより天に近い上の方にいる。私たちはこの家の中だけで奥様に守られて暮らす。
そんな生活の中で、新聞勧誘の人が持ってきたお試し新聞の記事を見て、1人の使用人は外にあこがれて家を出る。残った使用人はこれまでどおり家に残るがどこか心もどかしい。
これまでには絶対してこなかった奥様の大事なプリンを盗み食いしようとする。そして、折檻を受ける。
そんな中で戻ってきた使用人。外にはプリンはいくらでもある。
奥様への反抗心、依存心の葛藤の中で、使用人はこの世界から一歩踏み出す。

話としてはこんな感じでしょうか。
なかなか意味不明なところが多く、解釈が難しい。
奥様は最初、人としての姿ではなく、冷蔵庫だったりするので、何かのメタファーだろうと思い込んでいたり。
何かに縛られて内に籠った人たちが外へと目を向ける。奥様が縛るもの、新聞勧誘人が外へのきっかけ。う~ん、何と喩えているのかなと。
後半、奥様は人として動き始めてしまうので、それまで何となく想定した考えも崩れ、逆に使用人が奥様の心に宿る内向き精神のメタファーなのかなと思ってみたり。
トラウマみたいなものが二つあり、その一方は外に出て解消されるが、もう一方はいまだ奥様の心の中から消えない。それまでは仲良く、内に籠っていればいいねと仲良くしていたそんなトラウマがぶつかり合い始める姿なのかとか。
まあ、とにかく、何とか話を解釈しようと頭グルグルの観劇でした。

合評会で解き明かされたので少しすっきり。
死んでいないのに親の年金をもらいながら暮らす人や今の時代に増えた中の下であるぐらいを望んで上昇志向が全く無いような人たちを合わせて描いていたようです。
観劇しながら思い描いていた解釈とはずいぶんと違いますが、このままではいけないと思っている中での葛藤という点は何となく感じれていたのではないですかね。

2回公演がありましたが、ラストを全く変えたみたいです。
合評会で聞いた限りでは、題材にした事柄に対して見方を善意的、悪意的にするかぐらいの大きなものであったように思います。
作品では描かれず、私たちにゆだねられるラスト以後の登場人物のこれからが希望的なものに私が観た回は変わったような印象を受けます。

正直、どれも難しい。
面白かったですとはとても書け
ません。もちろん、面白くないことは決してありませんでしたが。
各客は3票の投票権を持っており、その各団体への投票数×50円が活動資金として手渡されるみたいです。
これぞといったものは無かったので、均等に投票。
試演会だけあって、試してみるところもあり、その各団体の思惑はなかなか十分には伝わりにくいところがあったように思います。

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コメント

とても興味深く拝読いたしました。
合評会では、このような忌憚のない感想が最も重要なのです。
試演会は照明や音響は最低限に抑えられ、舞台美術や衣装、小道具も簡略化されますので、実公演より理解し難く、多分に実験的な表現を試しますから、観客がそれをどう感じ、何を思い、どう理解し考えたかが、試演者にとっても重要な内容となります。
1つ目のように、言語表現による聴覚情報と、身体表現による視覚情報を同時に処理する作品では、情報に乏しい身体表現を判りやすく認識させる演出的な処置が必要です。
2作目は認知症の家族を背負う辛さをダイレクトに表現してますね。
祖母を降ろすのが、心音の終わる前か後かで、意味が変わって来ます。
3本目は老死者の不正年金問題が背景にありますが、印象的にはシンデレラの物語が強く、お城を目指すところで終わってしまい、その後のシンデレラと年金問題を如何に融合させるかに課題が残る作品でした。
続きが気になる作品でした。

投稿: ツカモトオサム | 2012年5月11日 (金) 17時30分

>ツカモトオサムさん

コメントありがとうございます。
そして、本日もありがとうございます。

なかなか、ああいう場で発言するのは、本業の方でも苦手でして、せめてこちらのブログではということもあり、思ったことをそのまま少し詳し目に書きました。

一つ目は、会場からも同じようなことに対する意見があり、演出の篠巳さんが同様の回答をされていました。
あとは時代背景と小説の出版年がリンクしているのかと。出版年に関する回答はありませんでしたが、あくまで現代を想定していたことを述べられています。

二つ目は、こういうドキュメンタリー作品をすると、初日と次の日では演じ手の感覚が異なるのではないかという質問がありました。伊藤さんは、確かに2回目は非常にやりにくかったと答えられています。
そして、背負って負担を見せるのはいいが、最初は楽そうなのが違和感があり、初めからかなりきつい状態の方がしっくりくるのではという意見も出ていました。
一つ目の公演中に既に背負っていればよかったですねとか言って、会場を湧かせていましたが、伊藤さんはかなり鋭い指摘のように感じられていたみたいでした。
この日は、背負われる女優さんにずっと口を半開きにさせる演出をされており、途中からよだれがダラダラと、より認知症をリアルに感じさせています。

三つ目は、中嶋さんから、作品の解釈についての説明と、前日とラストを根本的に変えたことの説明がなされました。
使用人にどちらかを遊園地に向かわせるパターン二つは想定していたらしいですが、色々と話し合いがあった中で、二人ともお城を目指すという表面ではなく、話の基底部分をいじる決断をされたようです。そして、このようにして創る演劇スタイルを目指していることを述べられています。

ブログ、拝読しました。
プリンはああとらえればいいわけですね。うまい解釈が見つからりませんでした。なるほどねえ。

観る側にとっても学ぶところが多く、面白い企画ですね。
また、足を運んでみようと思っています。

ありがとうございました。

投稿: SAISEI | 2012年5月11日 (金) 23時46分

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