悲惨な戦争【A級MissingLink】120302
2012年03月02日 アイホール
う~ん、素人が偉そうな書き方かもしれないが、傑作だなあ。
唸りますねえ、この上質な作品には。
竹内銃一郎さんという方の戯曲を、土橋淳志さんの演出で出来あがった作品です。
戯曲と言えば、もうその言葉だけで拒絶反応が起こって毎回、頭を混乱させてくれますが、この戯曲はとにかく分かりやすい。
言葉のリズムがいいのか、展開がスムーズなのか、理由は解析など出来ませんが、とにかく内容がスルスルと頭に入ってくる。
もちろん、演出効果や役者さんの魅力、さらには見事な具象舞台、作品に集中しやすい音響や映像なども大いに影響していることでしょう。
作品自体は普通の一家が戦争に巻き込まれる不条理劇です。
そんなことありえるわけもなく、何かのメタファーになっていることは明らかでそれを紐解きながら観ないといけないわけです。
話が分かりやすく、しかもそれが笑いのある面白いものなので、その作業に集中して観れます。
もちろん、そんなことしなくても、ただ不条理な状況を楽しむなんてのもこの作品では可能でしょう。考えるのが嫌な時もありますから、そんな観方でも楽しめるような作りが、私の感覚では万人に賞賛される作品だと位置づけています。
先日拝見したカムヰヤッセンの作品も同じですね。
100分間。
無茶苦茶な状況での不条理な笑いを楽しみながら、色々と思い巡らせるいい時間を過ごせました。
まさにこれが上質な時間だと思うのです。
(以下、あくまで私なりの解釈ですが、ネタバレに感じる方もいらっしゃるように思うので公演終了まで白字にします。非常に面白い作品です。普段、よく観劇される方は特に、色々な作品を思い起こしたりしながら楽しめるでしょう。公演は日曜日まで)
話としては、本当にある家庭が戦争に巻き込まれます。
夫、妻、妻の父。
家の周囲には銃声が聞こえており、実際に家では鍋に銃痕があったり、ドアのノブや椅子が破壊されたりしています。決して、妄想ではなく現実に戦争は起こっているようです。
赤色の鉢巻きをして、自らを赤組と称して、敵の白組との対決模様を醸し出しています。
そんな戦争のことを聞きつけたテレビディレクター、援軍として夫の会社の上司、従軍慰安婦として行きつけのキャバ嬢までもが家に入り込んできます。
テレビディレクターはとにかく、この戦争をネタにしたい。鍋に穴が開いている程度では何も面白くない。戦死者の一人二人でもいてくれないと、もっと過酷な状況に家族が置かれていないと。勝手な演出で悲惨な状況を作り出そうとします。家族もテレビに写りたいので、それに安直に対応します。
最終的には捕虜がいることも明かします。この捕虜は訳も分からず、たまたまこの家に入り込んでしまった人で、とにかくこの場を逃げようと必死。
会社の上司は援軍と言いながらも、ウルトラマンやガッチャマンなどヒーロー人形を持ってきてどこかふざけている。キャバ嬢も、ただ妻を怒らせたいだけのような言動しかしない。
やがて、戦争は激化し、本当に人が次々と死んでいきます。
最終的には家は破壊され廃墟に。
後には捕虜だけが残るという結末です。
まず、感じるのは敵が見えないということ。
見えない敵との戦争です。
この見えない敵の正体を自分なりに解き明かすのにけっこう時間がかかってしまった。
気付いたのは、外に出ると銃撃を受けるという設定、そして捕虜の格好。
捕虜はつなぎ服を着ていて、上半身部分を脱いで腰に巻いています。そのつなぎ服が不織布を使った防護服だなあと。
仕事柄、私は無菌室で働くのでそういう服を着ますし、全部脱ぐのが面倒な時にあの格好をするのです。
そのあたりから、判断して、要は言葉にしてしまえば、見えない敵の正体は放射能ということでしょう。
となると、この状況もなるほどと結びついてきます。
終始、不条理な展開なので、本当に戦争って起こってるのかなと思う時があります。
家族の周囲の人はもちろん、巻き込まれている本人達を見ていてもそう思ってしまうぐらいです。
そして、誰もこの戦争の真実を確かめようとしないで、置かれている状況に対して各々の対症療法的な行動を取っているだけ。
距離感や無知という感じですかね。
震災における今の日本をイメージすれば、
テレビディレクター → 事件を煽るだけのマスコミ。
上司 → 何とか家族を救いたいという気持ちはあるが、その状況は決して把握しておらず、本気度は低い。一番、自分に近いような気がするキャラかな。
キャバ嬢 → 事件と距離を置く人。自らが関わっているわけではないので、その状況を見て、知らんぷりやらかわいそうやら直観的な感情しか持たない。
家族 → 事件の被害者。実際にひどい目にはあわされているが、今はそれがそれほど深刻なものではなく、何とかなると思っている。戦争の真実を確かめず、当の本人なのに他人事のようにも見えてしまう。
この上記した人達はこの作品ではみんな最後に死にます。
本当に悲惨ですね。
ちなみに死ぬ順番は上司・キャバ嬢、ディレクター、家族の順番です。
距離感がある人の方が先に死んでしまうというのも皮肉な描き方だと感じます。
捕虜をどう考えればいいのか、私にはちょっと難しい。
恐らくは無知じゃない人な気がするのですが、距離感がどこにあるのかが分からない。
防護服を最初から纏い、一度は家に入り込みながら、その場を脱出することに必死になる姿。
政府や事件の加害者。事件の真相を把握している者。戦争の正体を知っている者。
だとすると、それが最後、生き残っている姿に怒りを感じ、糾弾しないといけないはずなのですが、あんまりそんな気にはなれなかったです。
この戯曲、調べると本が1980年に発行されています。
作品中のテレビディレクターが11PM担当だったりするので、確かにこの時期でしょう。
そして、この時期から何回か舞台化されているようです。
この時はどういうメタファーとして扱ったのだろう。
時代背景に何があるのかな。
経済がどんどん発展してイケイケの時。同時に人とのつながりが薄れ始める頃のような気がするが。
また、違った形での同作品も観てみたい。
素晴らしい作品だった。
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コメント
タイトルの「悲惨な戦争」は、劇中にも使用されていたピーター・ポール&マリーの名曲で、反戦歌ですから、名犬ラッシーが何を指すかも見えて来ます。
登場人物中唯一の外国人名で、しかも「犬」ですから。
戯曲を難しく思う必要はありません。
以前書いたブログから「戯曲」と「脚本」と「台本」の何が違うかを添付しておきます。
☆戯曲
戯曲は言語によって表現された文学の1ジャンルで、もちろん上演することを前提に書かれていますが、それ自体がひとつの作品であり文学なのです。
よって演劇に全く興味のない読者も在り、上演を目的とせず読み物として書かれた作品も存在します。
☆脚本
脚本は上演することを前提に書かれた戯曲であり、場面の設定やト書きによる演技や装置・照明・音響など、作者の指定が書かれた物で、あくまで演劇の上演を目的としています。
☆台本
上演のために必要な条件や指示などを記録し、テキスト・レジーした脚本のことで、最終的に書き換えの必要ない台本を[完成台本]または[上演台本]と呼びます。
通常セリフの上下に余白があり、スタッフによって書き足しが出来るようになっています。
さらに照明や音響・映像・装置の転換・衣装の着替えなどを書き加えた物を[完全台本]と呼びます。
小劇場では最終的な完全台本が存在することが少なく、しばしばキッカケを克明に記した舞台監督の台本が完全台本に一番近い物になります。
つまり呼び方が違うだけで、意味合いとしてはほぼ同義語です。
戯曲における言語とは会話や独白等の台詞を意味します。
ついでながら「セリフ」には「台詞」「科白」の2種類の表記があり、脚本に書かれているのが「台詞」で、役者が身体機能を用いて発するのが「科白」です。
投稿: ツカモトオサム | 2012年3月 4日 (日) 04時25分
ちょっこし補足:
台本は演劇を上演するための叩き台の意もあり、台詞だけを綴って、場面設定を記してないものもあり、逆に設定や動きや進行だけを記したものもあります。
[台詞]は台本に記載された詞(コトバ)の意。
一方[科白]は科(シナ)つまりシグサと白(セリフ)で、役者の発する言葉を指す。
例えば、覚えにくいのは[台詞]であり、聞き取りにくいのは[科白]です。
正しいとは言えないが、簡単に言えば[台詞]は文字であり、[科白]は音声です。
しかし現在このような使い分けは無意味であるし、必要性も薄くなりました。
テキスト・レジー(略してテキレジ)は、演出が上演用に脚本の台詞を書き換えたり、カットしたり、書き加えたり、場面を入れ替えたりすることで、チラシの表記には脚色あるいは潤色と記されます。
投稿: ツカモトオサム | 2012年3月 4日 (日) 15時37分
>ツカモトオサムさん
あ~、そこが抜けてたかあ。
日本とアメリカの関係も比喩されてたんですね。
今回はいい線いってたと自負してたんですがねえ・・・
ご丁寧な用語解説ありがとうございます。
戯曲は分かっているつもりだったのですが、脚本と台本の違いがいまひとつ分からなくて。よく上演台本を販売していますとか言われると、脚本じゃないのとか思っていたのですが、この説明でよく分かりました。幾つかの作品の台本を持っているのですが、確かに照明などの指示が書かれてますね。
あっ、でも戯曲は上演を目的としていない物として位置づけていました。言語による表現と、もう少し幅広いものなんですね。
台詞と科白の違いは難しい。感覚的には分かるのですが。文字と音声というのが、何となく掴みやすいです。
テキストレジーは原作○○、演出○○とか書かれていることが多いみたいですが、つまり脚色ということですね。
ありがとうございました。
投稿: SAISEI | 2012年3月 5日 (月) 16時39分
過去の戯曲を観劇するのに、予備知識として初演または書き下ろされた時期の時代背景は知っておいた方が得策です。
ベトナム戦争が終わり、戦争責任や政局が問われた時期であり、時代の流れに巻き込まれた一般人の家族を日本の家庭に置き換えられて書かれていますが、見えない恐怖に怯える人々の姿は先の震災と原発事故にも共通する問題として描かれています。
戯曲については、基本的に舞台化する目的で書かれた文学ですが、初めから上演を目的とせず書かれた脚本形式の文学作品があり、レーゼ(読む)ドラマとか、ブーフ(本)ドラマとか、英語ではクローゼットドラマと呼ばれています。
いわゆる書斎劇です。
舞台戯曲はビューネン(舞台の)ドラマです。
戯曲は文学作品なので、読者が読んで理解できる世界観が必要ですが、脚本や台本は上演のためのテキストですから、必ずしも完成された世界観があるとは限りません。
テキレジは説明不足でしたね。
脚色のことではありません。
脚色や潤色する行為がテキレジです。
小説や戯曲、実在した事件等を脚本にすることが脚色で、作品のテーマ自体を変えてしまうこともあります。
潤色は脚本を改変して、エピソードや登場人物を加減して、作品の色合いを変えることですが、テーマ自体まで変えることは少ないようです。
つまり潤色は脚色に含まれるので、潤色作品ではどちらを表記しても間違いではありません。
投稿: ツカモトオサム | 2012年3月 6日 (火) 18時49分
>ツカモトオサムさん
そうなんですよねえ。
以前、サザンシアターの別役実さん作品の時にコメントいただいてから、時代背景も少し頭に思い描くようにしているのですが、今回の作品は、1980年って何があったかよく分からなくて・・・
ベトナム戦争かあ。
すいません。まだ分かっておりませんでした(゚ー゚;
それで反戦歌ねえ。なるほど。
素人的には戯曲はいわゆる普段読む本の言語表現スタイルが変わっただけ、脚本とかはかなり無機質なイメージですかね。
脚本は世界観がかなりの部分こちらの想像にゆだねられるので、いきなり読むとつらそうです。創り手は、そこから世界を創り上げていくということですね。
テキレジは何となく分かった気が。
普段、あいまいに使ってる言葉に隠された本当の意味はなかなか馴染が無く難しいですね。
ご丁寧な解説、いつもありがとうございます。
投稿: SAISEI | 2012年3月 8日 (木) 09時58分