光をあつめて【女性芸術劇場】120324
2012年03月24日 ドーンセンター 7Fホール
女性写真家、山沢栄子さんの人生を描いた作品。
1899年生まれで、27歳にして単身渡米。元々は絵画を勉強するつもりだったが、写真に魅惑される。帰国後は大阪にスタジオを開設。戦時下においても俳優の舞台写真を撮るなど、主としてポートレート分野で活躍。60歳を過ぎても、その活躍は止まらず、抽象写真にも取り組む。
晩年は車イス生活の中でも表現に対する意欲は失われずコラージュの創作に挑みながら生涯を1995年に終える。
そんなある女性の人生を懸けた表現に対する想いを求め続けた強い生き様を描いている。
演劇作品らしく、彼女が愛用して晩年は使われることの無くなったカメラ、グラフレックスや、持ち主とともに一時代を過ごしたライカ、アンソニー、コダック、ミノルタのカメラ達が過去を振り返りながら話を進めるというちょっと可愛らしい作りになっている。
日の出から、太陽がさんさんと照りつける時間、ちょっとそれに影が見られる時間、そして日の入り前のかすかな明かり。一日のどんな時でもその光を集めて自分の中に取り込んでいこうとした、彼女の一生を表現したかのような話だった。
女性劇場というので、女性蔑視の風潮の中で、強く生き、自分のやりたいことを貫いたような作品をイメージしたが、それをほのめかしているものの、そこに焦点はあまり当たっていない。
単に、貪欲に表現することに捕らわれ続け、その中でストイックにたくましく生涯を過ごしたという話が描かれているだけである。そこに男や女はあんまり感じなかった。
確かに男女差別なんてものなど、鼻から考えて生きているような方ではなく、そんなことをテーマに大きく持ってくるには不釣り合いだと思えるほど大きい人のように感じた。
どんな時でも揺らがない。あきらめたら、そこで終わってしまう。
数々の人生論を入れ込みながら進む話に勇気付けられる。
面白いのは、この作品、写真家の話ではあるが、演劇に置き換えて思わせるようなところがある。
同じように表現するということに魅惑され、同時に苦悩されている演劇人ならば、心揺さぶられるところがたくさんあったのではなかろうか。
家族の写真を撮るのはなぜ撮るのかという理由を考えやすい。そこには家族のためという明確な理由がある。
単に写真を撮る場合は、何のためなのか。誰かを意識しているのか、それとも自分自身のためなのか。
表現するのは誰かに見せるためなのか、自らの高ぶる欲求を昇華させるためなのか。
劇団が作品を創られて公演される時も同じようなことを考えたりするのかな。
好きなことをするにはたくさん苦しまないといけない、好きなことをすれば幸せにはなれないという言葉が劇中に出てくるが、そんな思いは表現者ならばより理解できるのかもしれない。
弟子が、自分のやりたいことを目指し、師匠の下を去っていく。そこに表現の方向性の違いを感じたから。ただ、新しいところで、そのやりたいことをしている人と同じことをしても仕方が無い。そこには、もうその人がいるので、自分が同じことをすることなど誰も求めていない。劇中の一シーンであるが、人生の色々な時に通じる話である。
自分がしたいこと。どこに行けば、誰とすればではなく、当たり前ではあるが、するのは自分ということを再認識させられる。
しかし、ここまでぶれない生き方をしている人を見るとちょっととまどう。
先の不安や逃げ場所を考えることはなかったのだろうか。
そこまで真摯に一つのことを追求できるものなのか。
色々な考えがまとまらず、浮かぶが帰りの電車で思ったこと。
十中八九、大丈夫とかダメなんて言うけど、そもそも十あるという考えがおかしくないか。
一が大丈夫かダメかであり、それに勝負することの繰り返しが正しいのでは。
そんな訳の分からないことを何となく思いながら、帰路につく。
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