<映画>ALWAYS 三丁目の夕日’64
三丁目の人たちの温かい心に触れて優しい気持ちになって、一からやり直しで先がどうなるか分からなくて大変だけど大きな希望もどこかに確実に感じられるようになった時代の中、懸命ながらもあらゆることに一喜一憂するとぼけた人たちに微笑み、・・・
素直に泣けて、感動した作品であることは間違いないな。
正直、泣きまくったからね。家で観てたら、間違いなく号泣ですよ。
こんなうまいこといくかよ、こんないい人ばかりじゃないよ、古き良き時代なんて、実際生きてきた人がどんだけ大変だったか、ちょっとわざとらし過ぎるんじゃないの・・・
いくらでも斜に構えて観れば文句はつけれる。非常につけやすい作品だ。
ディベートの題材とかに最適じゃないかな。
素直じゃないから、途中そんな風に観たりもしたけど、結局ダメだったな。私もけっこういい子だな。少し安心したよ。
不器用な想い、それをやっぱり不器用に受け取り、そこにありがとうの言葉を生み出す人たち。
そんな人の本来持つ善意の精神が嫌味で露骨過ぎるぐらいに描かれている。でも、これでいい。私には心地いい。
東京オリンピックが始まり、終わっていく時間の中で、そんな人の絆を思わせる話を展開している。
これまでの頑張りが一つの形となったオリンピック、それが終わることで、また新たな道へと再出発する。そこに見える達成感、同時に感じる寂しさ。でも新たに感じられる未来への自信、期待や希望。
これが、描かれるエピソードとオーバーラップしているところが、うまい演出だなあと感じる。
鈴木オートにずっとお世話になっている六子。この時代にはふさわしくない生き方をしようとしている青年医師。
人の役に立って喜んでもらうことが嬉しいと感じることができる二人は、力を合わせて一緒に未来を過ごす決意を固める。
寂しさを感じながらも、わが娘のように大事に想ってきた六子とその子が選んだ青年医師の未来を祝う面々。
売れない小説家の茶川先生夫婦にずっとお世話になっている淳之介。いい大学に入って、安定して幸せな生活を送って欲しい先生の思いを知りながらも、先生のような小説家の道を捨てられない。
淳之介は出版社のお世話になり、小説家を目指す決意をして、茶川先生の家を出る。
寂しさを感じながらも、突き放してそれを許し、淳之介の未来を願う先生。
前々作、前作から時も経ち、一つの過渡期が終わったような今作品。
オリンピックのように、三丁目の人たちもこれまでがむしゃらに生きてきた中での一つの答えが出たような感じである。
でも、当時の時代のようにまだまだこれから。
日本も頑張らないといかんし、一つの節目を迎えた三丁目の人たちもまだまだ生きていかないといけない。
そこにこれまでの感謝、ありがとうの言葉を残し、未来を生きようとしている姿には心を動かされざるを得なかった。
大変だろうけど頑張れよという、この時代の未来に生きる私がかけたくなる声は先人たちへのエールとともに、時代は違えどまだまだ頑張らないかん自分へのエールにも思える。
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コメント
残念ですが、私はこの映画が好きではありませんでした。
斜に構えて見たのではなく、善意や好意の表し方が、みな屈折しているところに不快感を感じました。
中でも、最もメインに据えられた茶川先生は卑屈そのもので、養子とはいえ息子への愛情表現が屈折しまくっています。
その「不器用さ」に心打たれる人が多いみたいですが、何かあると周りに当たり散らすさまは、ただの「幼稚」そのもので、それをメインのストーリーに据えた脚本に呆れました。
投稿: たか | 2012年3月15日 (木) 13時49分
>たかさん
コメントありがとうございます。
分かる気もしますね。と言うか、分かりますね。芥川先生ね。
卑屈さ。
原作はそれほどでもなく、どちらかと言うと、書かれている不器用さが表に出ているように思うのですが、確かに映画ではそれが幼稚で屈折したものに感じれますね。
違和感があるのだけど、そこは原作に姿に無理に置き換えて観ているところもあります。
まあ、そんな幼稚さをも愛情として見れて、ありがとうの言葉を発せられる淳之介君の将来が頼もしいじゃないですか。
投稿: SAISEI | 2012年3月17日 (土) 00時09分