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2012年1月23日 (月)

フローズン【ポータブルシアター】120122

2012年01月22日 芸術創造館

プリオニー・ラヴェリーという英国劇作家の作品。何でも、1998年に初演、その後、2004年にはブロードウェイで上演され、トニー賞の最優秀作品賞にノミネートされたとか。
と書いても、私は作家自身のことも知らないし、その賞の権威も理解していませんのでピンとはきません。
ただ、相当難解な作品を日本で初めて公演する。それを、LINX'Sで知った劇団がやるというので観に行ってみました。

実は足が非常に重く、どうしようかとさんざん迷いました。
一幕1時間40分、休憩10分はさんで、二幕55分の大作なのです。
難しくて、もし付いていけなかった時の、悲惨な3時間弱を想像すると容易に観に行けるものではありません。
Twitterの数々の褒め言葉を信じての観劇でした。

結果は、確かに極めて難解な話でした。
でも、これは作品の形態が難しいのではなく、テーマが難解なのです。
その難解なテーマを、役者さんの真剣な圧倒される演技で、実に分かりやすく感じさせてもらえる作品でした。
たくさんの問題提起をしてきて、こちら側に考えさせます。
観終えたからといって、その回答にたどりつくわけではありません。
でも、その考えたことが心に深く残ります。
これからも、何かのきっかけでこの作品のことを思い出すでしょう。
その時、本を読んだだけでは無理な、芝居としてのイメージが刻まれていると思います。

連続少女暴行殺人犯の男。
その被害者の母。
精神科医。
登場人物はあと、看守がいますが、基本は3人だけ。
男の不遇な育ちの中での親や周囲の大人、母の家族、精神科医の親しい友人などは、この3人の語りから浮き上がってくるようになっています。

殺人犯は幼児虐待の中で育ち、精神疾患の症状が見られる。殺人を悪いと思っていない。
悪意による犯罪と病的疾患による犯罪の違い。罪と症状の違い。この作品の一つの大きなテーマがここに存在します。
母は当然殺人犯を憎み、恨む。どういう形で復讐したらいいのか。いや、殺人犯を理解して許すことが必要なのか。
自らが経験することはまずできない人が大半を占めている世論の中で、被害者心情をどう理解すればいいのか。
精神科医の役割。科学的な犯罪理由の証明が、殺人犯、被害者の理解につながるのか。
数々の問題提起が話の進行とともに挙がってきます。

精神科医もこの作品中では、親しい友人を何の落ち度も無い交通事故で失っています。
虐待をして傷つけ続けた殺人犯の親とそれに抵抗するすべを持っていなかった殺人犯。
殺人犯とたまたま目をつけられた被害者の母。
交通事故の加害者と運悪く被害者となった友人を持つ精神科医。
次元は違えど、そこには3人の共通の心を凍りつかせている要素があります。
それが複雑に交錯しながら、怒り、悲しみ、憎しみ・・・という形でそれが表面に溶け出てきます。

作品の本質は本当に難しく、適切な文章ではとてもうまく書けません。
虐待→脳の発達障害・損傷→犯罪というよく言われる科学的データを主張する精神科医。
脳の神経発達は生まれて数か月でほぼ8割方完成しているなんていう生理学的な科学的事実から考えると、生まれてすぐというよほどの時期から虐待を受けないとなかなか納得させるだけの根拠にはなりません。
それよりかは、生きていく中での生活環境。こちらの方が理にはかなっている。
病気だからという理由では、仕方がないかという形に結び付けられやすいですが、それは被害者はたまった話ではない。生活環境なら、悪意はないにせよ、病気だからという理由ほど簡単には片づけられないのではないか。
そもそも、加害者を理解するということが被害者に可能なのか。させる必要もあるのか。被害者には憎しみしかないはず。科学者が理解したいのは探究心から分かるが、それを被害者に押し付けるようなことは自己満足に過ぎないのではないか。
その時、被害者がいう理解は、妥協、あきらめ、屈服に近いものに等しいような気がする。
要は極論ですが、加害者は悪、被害者は善。この絶対的なことを覆す必要は無く、それならばそこに科学的な解釈など不要という考えです。

こんな感じのことを私は考えています。いや、考えていました。
よく分かりません。考えすらしてなかったけど、こうして文章を書いているので、さも考えていたように書いているだけかもしれません。
でも、そんな考えが少し変わっていったような気もしています。

少なくとも被害者が加害者を理解するということは可能なのかもしれないという気持ちになりました。
理解すると許すを同一に扱わなければ。
病気を理解する→罪を許すは必ずしも進む流れではないでしょう。
でも、病気を理解するという段階までいかなければ、後の許すというステージには絶対に行かない気がするのです。
その理解のために、科学的な証明の必要性があることを考えます。
原因があるから結果があるように、やはり理由があるから、こんな行動をしたという形での事実を明らかにしなくてはいけないと感じます。

作品ではこう考えるべきなどという回答は一切ありません。
作品の中での殺人犯、被害者の母、精神科医の時間の進行とともに見えてくる表情や言動の違いからそう感じたのかもしれませんし、この作品の必ずしも現実にそうなるとは限らない結末だけを見てそう思ったのかもしれません。

最後、殺人犯は自らを理解され許されたことを感じ、その凍りついた心を死という形で溶かします。
被害者の母は、複雑ながらも事件から停まった状態では無く、そこから進み始めます。
精神科医も一連のこの事件から、自らを見つめ直し、新しい道を切り開いています。
3人とも、各々の形で硬直した心をほぐしたように感じます。

作品名、frozen。
過去分詞形ですね。
frozeという過去でもなく、freezeという現在でもない。
同じ分詞でもfreezingという現在分詞ではない。
凍っているという能動的ではなく、凍らされたという受動的というイメージなのでしょうか。
それと同時に、凍っていた、でも今は・・・
という思いが込められていて欲しい気がします。

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コメント

とても難しい作品でしたね。
正しい考察だと思います。
劇中、一人芝居から二人芝居に発展させることで、人間が関わり合うことの意味を投げかけた作品でもあります。
20年の歳月が娘を殺された母親の心を何度も切り苛み、最終的に許しの境地に達することは、私は有り得ることと思いますし、菊池寛の戯曲『敵討以上』(小説では「恩讐の彼方に」)のような物語も、実際にあることのように思えます。

投稿: ツカモトオサム | 2012年1月24日 (火) 16時39分

>ツカモトオサムさん

コメントありがとうございます。

前日にお会いした時に、見るべき作品と言われた言葉が最後の後押しでした。
難しい作品でしたが、このタイプはけっこう好きです。

いただいたコメント、ブログを拝読して、人との関わりの中で、各々の人物の心が動いた事実が十分理解できていなかったなと思いました。
3人が最後まで舞台上で同時に登場することが無かったので、そこに頭がいき過ぎていたのかもしれません。
後半、二人芝居の組み合わせで互いが関わりを持ち始め、その積み重ねが三人の関係を築け上げていく。そこで、動き始めた各人の心。
関わったからこそ、殺人犯は自殺し、母や精神科医は進みだす。関わりあわなかったら、何も話は進まなかったことでしょう。
心を凍結させるのが人のしわざなら、溶かすのもやはり人によってでしかあり得ないというところでしょうか。

藤十郎の恋・恩讐の彼方にをアマゾンで注文してみました(゚ー゚)

ありがとうございました。

投稿: SAISEI | 2012年1月25日 (水) 16時28分

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