RE:人だしね。
『人なんだもん。
たまには悩んだりしたりする。
バイオリズムの無い人なんていないし、
傷つけてしまったり、傷つけられたりもしてしまう時だってある。
苦しんだり、喜んだりで人の痛みとかが解るようになる。
経験の1つ1つが積み重なって優しい人になれると思う。』
ある方のブログ記事をそのまま引用。
経験を積めば・・・。そう、人を傷つけることをかなり抑えることができる。
自分が苦しみ、喜んだ経験から推測して、何をすれば、何を言えば相手が傷つくかが分かるようになるからだ。
傷つけるのは嫌。
相手の気持ちを思いやるなんて殊勝な考えは私の場合は少ししか無い。
もっと大きいのは自分にもほぼ同じダメージが跳ね返ってくるからだ。つらく悲しい、そんな思いをわざわざ自らする必要は無い。
でも、これは自分と同じ波長を感じる人に言えること。
全く違う波長の人に対しては、残念ながらこの考えは通用しない。だって、自分の苦しみ、喜びが相手とは違う次元にあるんだから。こんなことで傷ついちゃうの?、知らない間にそんなに傷ついてたんだってやつがそれだ。
うまいことできている。
神では無いのだから、そんな人に対しては傷つけてもそれほどの罪悪感が生まれない。ダメージの跳ね返りが少ない。分からないんだから仕方が無い。悪意が無い攻撃に反省の気持ちは生まれない。
これも経験になって、同じタイプの波長の人には今後活かせそうだが、少なくとも私の場合はそうなってない。あくまで、傷つけない能力を高めるのは自分が感じた経験からのみだ。
これは一般的に世間からは自己本位として表される。いい言葉ではないけど仕方が無い。優しい人からは遠くかけ離れている。
問題は同じ波長の人、たいていの場合、イコール傷つけたくない人。そんな人を傷つけてしまう場合がある。
上述した考えならば、単純に経験不足。でも、そんなに簡単に人の心は解析できない。
いくら同じ波長でも全く同じなんてあり得ない。えっ、同じ考えなはずなのにそれで傷ついちゃうんだってやつ。
この時の悲しみは深く大きい。傷つけたくない人が傷ついている現実と自分の経験値ではどうしようもない力の無さを突きつけられる。何よりも悲しいのは、同じ波長であること自体を疑わざるを得ない時。根本からの否定。
そんなことしたくない。だったら、そんなことを考えるような状況にしなければいい。
傷つける可能性があるならそれから逃げる。何もしなければいい、何も言わなければいい。
これは一般的に世間からはおくびょう、弱虫として表される。これもいい言葉では無い。でも優しい人には少し近い位置にいるような気がする。
傷つけられる。
誰もが経験すること。こんなつらい事は無い。
相手に依存することだから避けることも出来ない。
違う波長の人が傷つけてくる。まあいい。次元が違うんだから、当然、ありえることだ。
傷つかないように自分で制御すればいい。さほどつらさを感じて思い悩む必要も無い。そして、それを経験として、自分の中に入れておけば、対処の幅も広がる。同じ波長の人に、こういうことをすれば、こういうことを言えば、傷つく可能性があるということが身をもって分かる。いい経験させてくれてありがとうとすら思えばいい。
現実には出来ない。でも、それを目指せばいい。
これは一般的に世間からは器の大きい人として表される。これはいい言葉だ。優しい人にもだいぶ近づいてきている。
同じ波長の人に傷つけられる。
あって欲しくない話。でも現実は起こる。こんな悲劇は無い。一番つらいこと。
どうしてそんなことするの?、どうしてそんなこと言うの?自分だったら絶対しないよ。
上述したように全く同じはありえないのだから、あり得る話だ。きっと相手の経験不足に違いないと信じたい。
傷つけられた行動・言葉への痛みは実は少ない。この時の尺度は別のものだ。傷つけるというもの自体に対しての反感。
自分だったらしない。同じ波長を信じている限り、この考えが基盤にある。
傷つけられた行動・言葉の奥深くに裏切りの感情を見出してしまう。
自分と同じ波長なはずなのに、信頼しているのに・・・、どうしてこんなことするんだ、こんなこと言うんだ。
いや、何かの間違いだろう。裏切るはずが無い。悪意があってした、言ったわけがない。
信頼と裏切り、相反する気持ちが交差する。
不安。
この感情が悲しみをじわじわ増幅させる。
増幅したものはもはや悲しみとは変わっている。
自分と違うことに対する嫉妬。そして、同じ波長という言葉への否定。
全く同じはありえない。この言葉の真の理解が大切だ。
相手のことを理解して認める。
簡単そうでなかなか難しい。少なくとも自分には出来ない。多分、私だけではないと思う。
完全否定しなければいい。
自らと違うことへの否定は部分否定に留める。否定して残った部分に対して、相手のことを理解し認める。
これも一般的には世間からは器の大きい人として表されるのかな。自分が使う言葉では区別している。幅のある人だ。優しい人とほとんど同義で使っている。
ケガをする。皮膚が傷つく。治る。
人間の皮膚は再生能力があるから便利だ。
でも、治ってなんかいない。
最初の強度の70%ぐらいまでしか回復しないことが科学的に証明されている。
色々なところを生まれてからケガし続ける人の体は、最初の強い体では生きていない。
傷つく。悩み苦しむ。立ち直る。
肉体と同じように、精神にも再生能力がある。無かったら大変だ。ぞっとする。
でも、どれくらい立ち直ってるんだろう。
少なくとも100%では無い。
心の至る所で、傷が残った状態で生きなくてはいけない。
傷つけ、傷つけられて生きていく人間の心は、生きていけばいくほどボロボロだ。
肉体的にも精神的にも人間はボロボロ。生きていくことは体と心をどんどん痛めること。
いや、そんなことはない。
鍛える。
これをしている。
鍛えた体は、100%までは無理でも元の強度へ体を近づける。
心も同じ。
でも、体と違うのは自分では鍛えにくい。
健全な精神は健全な肉体に宿る。肉体を鍛えれば、少しはましだろうが、心の傷を治すにはまだまだ不十分。
これは他人に鍛えてもらっている。
自分のことを考えてしてくれた行動、言葉がそれ。最大の喜びを得れる瞬間。
傷を治すと同時に、心が鍛えられる。
人から傷つけられるような行動、言葉を受けた時の防御壁を心に作ってくれる。
誰でも出来ることではない。でも、出来る人になれればいいなと願う。
万人に出来る人もいれば、同じ波長の人にしか出来ない人もいる。
万人にすればみんなから、相手単独にすればその人から、優しい人として表されるはずだ。
人を憂いてすること。これが字のごとく、優しいということ。
いつでも人のことを憂いていたい。ただ単純にそう思って、本当に憂う。陰徳だ。
でも自分だって、憂いて欲しい。当たり前の気持ちだ。持たない人なんていない。心に余裕がある時なら大丈夫だけど、自分だって不安な時はいっぱいある。その時に憂いてくれる人の存在は何よりの励みだ。それをひたすら願う。それだけなら何も問題ない。
どうして憂いてくれないの?そんな気持ちを持ち始めると危険。願いを超えて、求める考えが出てきている。
やがては、自分が憂いているんだから、お前も憂えということに必ずなる。陽徳だ。
これは実は自分は憂いていない。だから憂いてもらえない。当たり前だ。でも、不思議と自分では気づかない。
見返りの存在する行動・言葉に優しさは無い。
陽徳を積む。これは小人と呼ばれる。世の中で悲しきことは、小人なり。
陰徳を積む。これが出来る人を優しいと呼ぶ。優しさは強い人間から溢れる最大の力。
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コメント
もし神という存在があるのであれば人は神にはなれないですから また人は人の悪い所を探す天才ですからね(-.-;)
投稿: まこと | 2010年12月12日 (日) 15時59分
>まことさん
そのとおり!
悪いところは一瞬で見つけてしまいます。
良いところは時間かかるのに。
だからこそ、基本的に人のことは善意で見ないといけません。
投稿: SAISEI | 2010年12月12日 (日) 22時19分
言いたい事はわかりますが、どうも拝見して不快感を感じます。波長が違うのでしょうね。
投稿: 匿名 | 2010年12月16日 (木) 13時10分
>匿名さん
コメントありがとうございます。
お気持ち、私も何となくですが理解しています。
この記事、ある方に向けたブログを利用したメッセージみたいなものです。
スレ違いを起こしていて、多分、その方に対する非難や私自身の正当化が見え隠れしているからだと思います。
第三者の方の感想をいただいて、改めてそれを感じました。
書いてしばらく立った今、自分の誤りに対する反省とそれでもまだ自分が・・・という気持ちが交差して、苦しんでいます。
でも、この記事に書いた、優しい人には本当になっていけるようにしたいなと思っています。
こんな感想をいただいたのも一つの経験。大切に受け止めるつもりです。
ありがとうございました。
投稿: SAISEI | 2010年12月16日 (木) 14時04分