<死の淵をさまよう その2>ALS(筋萎縮性側索硬化症)
依然、続く厳しい状況。
もうこちらが限界だ。
8月21日
ずっと会社を休むわけにもいかない。今日は出勤して、少し仕事をしておかないといけない。
あせっても仕方がないと言って、普段通りの生活を無理矢理にでもしているが、やはりそう易々と気持ちは切り替えられない。
昼間が異常なほど眠い。夜が寝れない。
土曜日。いつもなら仕事を早めに終わらせて観劇だが、今日は中止。間違いなく、寝てしまうので、あまりにも失礼だろうと自粛する。
血圧は戻るが、37度9分。感染は治まっていない。恐らくは肺炎だろう。体力との勝負というわけか。
ドーパミンは10ml/hrから半分へ。痛みはだいぶ緩和されたみたい。血圧もこれで何とか維持しているので、こちらは問題なさそうだ。
睡眠導入剤が効いているのか、目がうつろ。たまに2~3分ほど、意識が戻る。
生きたいのか、死にたいのか、どっちだ。
法に触れない範疇で望みは息子の私がかなえてやるぞ。
今日はアパートに泊まる。明日も仕事だからだ。
飲みに行く気にもなれないので、たまっている観劇ブログ記事を書いて過ごす。
応援している役者さんからコメントが入っており、びっくり。少し元気づけられる。
8月22日
朝から仕事。午前中に片付く。
今日は既に予約していた観劇へ。
何かおかしなことをしている後ろめたさはもちろんある。でも、この状態が仮に1ヶ月続いたら、ずっとあらゆることを犠牲にするのかというのが、自分の中での言い訳。
私の仕事においてのモットーも同じ。ずっと続けられないことを、かっこつけて今だけしても仕方がない。少々おかしいことでも続けられるレベルで継続するのが大事だと思っている。
観劇終了後に母に電話。父の容態は悪化傾向。今度は低体温になって、血圧もまた低くなっているみたい。意識は無く、もう呼びかけにも反応しないとのこと。
今すぐということは無いが、明日、主治医と話して何らかの決断をしなくてはいけないことを考える。
とりあえず、食事を済ませて病室へ向かう。少し酒を飲むが、やっぱりおかしい。2合で酔いが回って気分が若干悪くなる。
病室の父は確かにもう意識が無い。かろうじて生きている感じ。呼びかけに反応しているのかどうかも分からない。
明日、どうするか。積極的な延命措置をやめれば、これは本当に最期を迎えそうだ。
本当にその決断が出来るのか、それにそんな決断していいのか、よく分からない。
とりあえず寝る。もう、分からない。
(ここまで、8/22の夜、記す。)
8月23日
血圧低下は続く。意識はもう無い。呼吸もおかしい。ドーパミンは10ml/hrまで減らしていたが、やはり低下が抑えられず、倍量に戻っている。
10:00に主治医と相談。現状以上のことはしないことを確認。
正直、後は死ぬのを待つのみとなる。
体のむくみがひどく、おなかの腫れもひどい。恐らく、膀胱の腫れだろう。尿がほとんど出ていない。血圧低下が原因か、ALS末期の膀胱の筋肉すらもはや動かせないのか。
尿道カテーテルを挿入。900mlの尿があふれ出てくる。
11:00頃、血圧、心拍数、酸素濃度、呼吸数モニターを病室だけでなく、ナースステーションでも見れるような装置に交換。いよいよやばいということか。
12:00頃、酸素濃度低下。みるみるうちに下がっていく。60を下回る(通常96~100)。同時に心拍数も今まで80以上だったのが50近くまで。顔色も悪くなってくる。
急いで、ナースコールを押す。酸素濃度低下していますという連絡をモニター越しにする。
1分ほどして、ヘルパーらしき人が病室へ。どうしましたか?と言ってくるが、どうしたもこうしたも、緊急事態だ。そう、ナースコールで伝えているはず。
すぐに看護士を連れて来ますと言って立ち去る。
頼りなさそうなので付いていくが、食事の時間なのかすぐに看護士が捕まらない。
結局2分ほどして、看護士到着。危険な状態なので、医師を呼ぶ。
そうこうしているうちに、復帰。恐らく舌でも巻き込んで一時的に呼吸停止状態になったのかもしれない。ほっておけば、多分死んでたかも。
医師到着時には正常に。
ナースステーションでモニターしておきながら、緊急事態にこの対応。どういつもりなのか、ちょっと怒る。忙しい時間帯に、いくら危篤状態だからと言って特別視できないのは理解できるが、いくらなんでも対応が悪すぎる。
どなりちらそうかと思ったが、やめておく。もう、疲れた。
もう、こんな感じで死ぬのだろう。死ぬチャンスを一度失敗したというだけだ。幸か不幸か、まだこれから、このチャンスはいくらでも回ってくるだろう。そして、いつかはそれをものにするに違いない。
それが今日なのか、明日なのか、1週間後なのか、1月後なのかということだ。
夜は母、妹を連れて外食する。息抜きが必要だ。1時間半ぐらい病室が空っぽ。一応、容態はまた安定しているので大丈夫だろうが、昼間のように、危険な状態には本当に急になるのだろう。
20:30頃に病室に戻る。意識があるのか無いのか、相変わらず分からない。呼びかけには目をパチパチさせている。意識があってしているのか、単なる反射動作なのかは分からない。
お友達からメールが届く。この陰鬱とした状況が続く中で、一瞬だけ安らぎが得られる。この状況を教えてしまった人には気を使わすなあ。申し訳ない。
母は今日も病室泊まり。家に帰って夜中呼び出される方がしんどいと言って、もうかれこれ1週間ぐらいは深夜付きっきりだ。気が張っているのか、体調を崩す気配はまだないが、どこかで割り切らせないといけない。
私は明日、早朝病室を見てから、会社へ行く。数件の仕事がある。しっかりメイン業務をやってくれる後輩がいるから、この程度の数ですむ。不幸中の幸いなのは確かだろう。世の中には、親が危篤状況でも諸事情で付き添えない人などいくらでもいる。
死に目に立ち会えるかは分からないが、好きな時に好きなように最後の段階で会えるというのは、ありがたいことだろう。
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コメント
この病への憎しみ 悔しさ さまざまな思いで疲労困憊でしょうがどうか悔いのない判断と冷静な対応を
投稿: まこと | 2010年8月24日 (火) 12時24分
>まことさん
8/26現在、お骨になってしまいました。
長引いても仕方が無いので、これで良かったのだと思います。
まあ、疲れますわ・・・
また、じっくり飲みましょう。
投稿: SAISEI | 2010年8月27日 (金) 02時35分
1月20日私の父もこの難病だという事がある大学病院の検査結果で分かりました。約1年間右腕の萎縮に伴う違和感で様々な病院で検査をして8件目の病院でやっと病気に名前を付けてもらったと父は半分喜んでました。
私たちもこの病気と今から戦っていかないといけないんだなと覚悟を決めた今日この頃です。
投稿: 宮崎 春子 | 2011年1月25日 (火) 10時56分
>宮崎春子さん
コメントありがとうございます。
複雑な気持ちの中で記事を読んでいただき、コメントいただいたことに感謝します。
もうこうなってしまったことにかける言葉はないですが、どうか体調、精神ともに崩してしまわれないように願います。
現実的で嫌なことを書いていると思いますが、実際に私の家族に起こったことです。
こうしてあげたらいいのかとか、逆にこんなことはするべきではないとかの参考になってくれれば、私としては嬉しいです。いや、嬉しくはないか。
多分、長丁場で付き合っていかないといけなくなると思いますので、本当に力を抜くところは抜いて。
記事で書いていることに反しますが、願わくば奇跡でも起こることを願います。
抗酸化剤の記事も書いていますが、可能なら検討してみてください。何をしても無駄にはならないと思いますので。
ありがとうございました。
投稿: SAISEI | 2011年1月25日 (火) 11時18分